戦局はいよいよきびしく、東京は空から襲われるようになった。昭和飛行機は大爆撃こそ受けなかったが、機銃掃射で重傷を負い、なくなった中学生があり、いつ本格的な空襲にあうかもしれないという危険から会社側では工場の疎開を本気で考えるようになった。青梅線の小作の駅の南、多摩川の流れに近い松林の中に半地下式の小さい部品工場が出来たのは昭和二十年の初めであったと思う。林の中に点々と機械工場二棟・鈑金工場二棟、それに各棟付属の倉庫及び事務所一棟が配置されて、数十人の工員さんと百人余りの武蔵の女学生がそこで働いた。

 

 

(※テキストはすべて原文のままです。)