語り継ぎたい無形の宝

  (都立武蔵高校校長 T.A.

 

 昭和二十年、東京都立武蔵高校第一回卒業生のアルバムを一枚ずつめくって行くと、六枚目に教職員の写真が出てきます。背の高いK先生は坊主頭で丸い眼鏡をかけて秀才青年教師の姿です。T先生はズボン(モンペ?)をはいて体格の良いお姿で、やさしい美しい眼が印象的です。M先生は黒い背広でぞうりをはいて、両手を膝の上でしっかり握りしめて、しっかりした青年教師姿です。現在の武蔵高校の先生方で、この写真に出ておられる方はこの三人でしょうか。

 その次のページは、朝礼の光景です。演壇上の校長先生(?)や男の先生はゲートル姿で、女生徒は長ズボンあるいはモンペ姿です。巻末に昭和十七年武蔵高女三年四組のクラス写真が一枚ありましたが、生徒も担任の女の先生もスカート姿です。三-四年の時の移り変りの激しさを感じます。昭和二十年、二十一年、二十二年卒業の方々は、戦争が激しくなり、敗戦へまっしぐらに崩れ落ちて行く頃、あるいは、敗戦後の焼け跡の東京で、食糧不足で苦しみながら、武蔵高校で学習した方々ですね。いわば、日本のいちばん苦しい頃に、娘時代を過された方々です。その頃の苦しさを思い出せば、今はどんな困苦にも耐えられると考えられることでしょう。また、今の高校生と自分達の高校生時代と比較すると、大きな変化に驚かれたり、若い者が情けなくなるように思われるかもしれません。

 しかし、困苦欠乏の時代を乗り切ってこられた体験はすばらしいものだと思います。その頃の思い出話をすると、お子様達から「お母さん、また始まった」といわれるかもしれませんが、その頃の体験は、皆様の貴い無形の財宝だと思います。あきられても、くりかえしてお子様たちに、お話してあげることが大切だと思います。それが親の教育というものではないでしょうか。きっと、お子様たちは、父になり、母になったときに、お孫さんたちにその話を語りついでくれるでありましょう。

 私も前述の三先生と近い年齢ですが、過去の体験しか、子供や生徒に残す宝はないと思って、いやがられても子どもや生徒にくりかえして聞かせています。いつか、私の長男が次男に対して、私のいつも言っていることを話し聞かせて説教している場面にぶつかったことがあります。

 どうか、あの頃の武蔵の生活を大切にして、後進の方々に語り伝えてください。

 

 

 

 

 

 

 「飛行機工場の少女たち」に想う

  (都立武蔵高校同窓会長 H.W.

 

 「平和ってナニ?」と尋ねる子供に「戦争の無い世の中さ」と答えるだけでは、一つ説得力に欠ける。

 「戦争ってナニ?」と問いかける子供に、一口で戦争を語ることができない。

あまりにも多くの犠牲と苦い想い出を人々の胸に焼きつけた戦争 —

 人は誰しも思い出したくない「想い出」があるものですが、それでも時には思い出さなければいけない「想い出」もあるのではないでしょうか。この書がその「思い出さなければならない想い出の記録」なのだと私は思います。

 戦争という異常な局面の中で、青春をぶっつけ合った乙女達の“生きた戦争史”を、あまりにも安易に「平和」と言う言葉を使う今日だからこそ、もう一度「平和」とうことの尊さをしみじみと味わうための貴重な資料として、私はこれを必読の書としたいと考えますし、多くの皆さんにも是非ご一読をおすすめしたいと思います。

 最後に本書をつくり上げられた、諸姉のご努力に対し深い敬意と絶大なる拍手を送らせていただきます。

                         (昭和四十九年五月)

 

 

 

 

 

 文集の発行を喜ぶ

  (都立武蔵高校同窓会顧問 M.T.

 

 戦争のころのことはいやだ、思い出したくない、と思っておりますのに、あのころの印象は強く心にきざみつけられて、三十年近くたったことがうそのように、皆様のお顔ははっきり浮かんで来ます。私は青梅や小作の寮には関係しませんでしたが、昭和飛行機工場には初めから終わりまで行っておりました。昨年“青梅寮二十八年目の集い”にお招きいただいて、皆様がたの昔そのままの顔にお目にかかり、ほんとうに嬉しくなつかしく、当時のことがまるで昨日のことのように思われるのに我ながらびっくりいたしました。

 あの当時は、“勝つ”ために生徒も先生もほんとうに一生懸命でした。馴れない作業で生徒が怪我をしはすまいか、私はそれがいつも一番心配で毎日職場職場をまわり歩いたものでした。戦争がはげしくなって徹夜作業の夜、空襲警報が鳴ったときなど、生徒を休ませて、先生方と灯を暗くして、息をひそめるようにして一晩中警戒に当たっていました。また、二回生の進学書類を作るために学校へ帰り、黒いカーテンを垂らした校長室で、なおその上に電燈に黒い布をかけて、机の上にすわりこんで調査書を書いたことなどが思い出されます。あのころの学校の授業といえばなぎなたの使い方、担架の運び方、救急法などばかりでしたね。

 また、学校の防衛宿直といって、先生と生徒が学校に泊まりこむことがありましたが、三月九日の東京大空襲の夜は、中島飛行機から東京・川崎の空まで真赤に焼け、私ども(O先生・K先生)は学校防衛どころか、生徒に防空頭巾をかぶせて、芋畑の中をころぶように駆けて防空壕に入れ、外に立って焼ける空を見張っておりました。この時の空襲で、一緒に宿直していらしたK先生のお宅が焼けたのです。

 一、二回生の卒業式はこのような中で行なわれましたが、式のための壇がなく、S校長先生がどこから見つけて来られたのか、わらじをはいて、御自身で古い教壇をリヤカーに積まれて門を入って来られたお姿は忘れられません。S先生は学校の書類を入れる防空壕なども、黙々と掘っておいででした。

 

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 昨年の二十八年目の青梅での集まりのとき、「あのころの皆さんの経験を文章

にして残しておいたら? きっとよい記録になりますよ」と言った私の一言がきっかけになって、この「飛行機工場の少女たち」発行の運びになりましたことは、ほんとうに嬉しく、心からおよろこび申し上げます。原稿集め、資料集め、編集など、皆さんお仕事をお持ちの方々で大変だったでしょうに、協力しあってこのような立派な文集が完成したことに、私は“武蔵高女”のよき伝統を見る気持ちがして、ほんとうに嬉しく思っております。この文集を一人でも多くの方が読んで下さって、二度とこんな経験をこどもたちにさせないように、いやな戦争が二度とおこらないように、一人一人が努力していただけたら……と願っております。

 

 

 

 

 

※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)