はからずも皆様再会の

    いとぐちとなって

  (T.E.

 

 それは終戦の前日にでも書いたものでしょうか。女学生さんが戦争に勝ち抜く決意いよいよ熱烈になって近況生活など、親せきへ知らせる手紙でした。製図用紙の切れハシに事細かく書いてある、私は心を打たれました。

 以来二十五年間も私の机の抽斗の中に大切にしまって置きました。何とかしてこれを書いた女学生さんに渡してあげたいと思っていたが再度内容を読んだとき、武蔵高女のYさんと判った。卒業名簿でお住いもわかったので、職業柄、一寸考えさせられたが、とにかくお知らせしてみた。昭和四十六年の夏のことでした。

 その翌年の初冬、TさんとKさん(旧Yさん)とお二人で私の処まで来ていただきました。初対面でしたが、一番人生で真剣になったときの思い出です。忘れることの出来ないお話に話が続きました。

 青梅線の小作駅から桑畑の中を南へ十分、坂下のSさんの蚕室に合宿していた当時の話、お隣のおばさん「Hさん」、食事をつくってくれた「Rさん」というめづらしい顔付きのおじさん、山へ仮づくりにつくられたカマド、P51の話など話が尽きない。毎日毎日、何度も来る空襲、夜はラジオの表示燈まで消し、くらやみで生活した話、関東海面空襲警報のラジオがまだ聞こえるような気がしますと「Hさん」宅でYさん、Tさん、Kさん、私、と四人での話でした。(昭四四・一二・二・午後一時)

 同窓会で青梅寮だった「寿々喜」までご招待をうけ、こんなことが機会で皆様のお集りが出来て感激しています。

                        昭和四十九年五月八日朝

 

 (E様は東京都羽村町 羽村郵便局長で、戦争当時も同郵便局長でいらっしゃいました)

 

 

 

 

 

※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)