武蔵高女の

  生徒さんの思い出

  (G.H.

  

 終戦後早くも満二十九年になろうとしている今日、“旧都立武蔵高女卒業生昭和飛行機青梅寮生の会”幹事の方から、お便りを頂戴しようとは予想もしておりませんでした。

 当時、会社は約二八○○名の動員学徒を迎えておりましたが、そのうち約一五○○名が女子で、都立武蔵高女、都立第九高女、帝国第一高女、杉並家政、立正高女、杉並高女、滝野川実科、明星学園高女、栃木師範女子部、東京第二師範の一○校の生徒さんでした。

 定刻、青梅線昭和前駅駅頭に集合、先生の点呼を受け、隊伍を整えて「花も蕾の若桜、五尺のいのち引っ提げて……」と学徒動員の歌を斉唱しながら、工場正門へ行進して来られた姿を今もって忘れません。

 空襲は一層苛烈となり、交通麻痺が相次いで、定刻が過ぎても生徒さんが帰宅されず、ご両親にご心配をかけたこと一再ならずと記憶しています。

 会社は、予て近郊に疎開工場を設営し、併せて、事務所、倉庫、宿舎として利用できる建物を借り入れて不時の用意をしておりましたが、これらのうち青梅の料亭「魚久」「寿々喜」を皆様の寮として使用して頂いた次第でございます。

 青梅は、当時も現在も、閑静でよい環境に恵まれた土地でございますが、食糧逼迫の状況下、家庭を離れて馴れない作業に打ち込む生徒さんたちの面倒を見られた寮監先生ご夫妻、諸先生のご苦労は大変なものだったことと存じます。

 動員学徒の皆様は、男女を問わず、先生方のご指導のもと、規律正しく、勤労意欲が旺盛で、ともすれば疲労をかくせなかった一般従業員のよい刺激となり、模範となって、監督官をはじめ、会社首脳部も感嘆しておられましたが、特に女子学は称賛の的となっておりました。そして、お世辞でなく、とりわけて武蔵高女の生徒さんの、しつけのよい、清楚で純真な姿、作業態度が話題になったことも屢々でございました。

 皆様には、万事に不安不満な毎日だったことと存じますが、ご送付頂いた「むさし同窓会」第九号に共同生活にも亦楽しい一面があったと載せられているのを拝見して、私も正直、救われた気持になりました。ほんとうにご苦労様でございました。

 「当時の年齢の子供を持つ年齢になった」とお便りにありましたが、全く感無量と申し上げるほかございません。

 三十年も経ちますと、記憶も薄れ勝ちでございますが、苦楽をともにした思い出を新たにする機会をお与え下さいました皆様に感謝と敬意を表し、ご健康を祈りつつ筆を擱きます。

 

 (H様は当時昭和飛行機工業株式会社勤労部次長兼勤労課長でいらっしゃって、学徒隊の世話をして下さった方です。現在三鷹市深大寺にお元気でおすまいです。)

 

 

 

 

 

 当時の学徒課長として

  (K.O.

 

 武蔵高女 — 学徒動員の皆さんお久しゅうございます。代表の方のお便りを幾度も幾度も読みかえしました。実を申しますと暗いみじめな敗戦の悪夢!私はつとめて昭和飛行機時代を思い出すまいとしてまいりました、が然し私はこの度のお便りを拝見して考えが全く変ってまいりました。

 悪夢は俄然吹き飛んで青く晴れ上がった空を見る思いです。三十年前の動員少女の皆さんからこんな素晴らしい贈物をいただこうとは夢にも思いませんでした。本当に有難うございました。

 日の丸の鉢巻に学徒動員の腕章をつけた凜凜しい女学生部隊が目に浮びます。さっさっと歩く足音が聞こえて来るようです。折目正しい武蔵高女!青梅寮!よく覚えています。殺人的な青梅電鉄、中央線のラッシュ、あぶない職場、粗末極まる食物、乏しい福利施設でした。この工場に二十数校数千名の学徒をお迎えしたのですが、皆さん本当にご苦労様でございました。当時学徒課長の私、今更お詫びの申しようもありません。只々恐れ入るばかりであります。

 

   ぞっとしたこと

 思い出は文字通り走馬燈の様に浮かびます、ぞっとしたこと二つ三つ。

 定められた場所(B森)へ待避の途中をグラマンに急降下爆撃され野原の一本樫?の根っこになだれをうってしがみついたこと(あなた方はこの中に居ませんでしたか?)。

 また八高線が鉄橋にさしかかってB29におそわれ、二輛が川中にぶらさがって大騒動(学徒も多数乗車)沢山の怪我人。

 東京大空襲の迎撃戦で敵機(米)がやられて片翼に火を吹きながら青梅の二俣尾まで逃げて墜落し搭乗員の中のパイロットの女性が逮捕されて青梅署へ。

 次は流言がぴたり当たったこと — 昭和飛行機工場は米軍が日本本土に上陸した際、修理等の基地として利用するため爆撃しない — と、まことしやかなデマ。ところがデマ通り無事だった(附近の中島、立川、日立、各飛行機工場は無茶苦茶にやられた)終戦直後米軍がいち早くこの工場に進駐して来、日の丸を星条旗に取り更えて飛行機の修理を始めたが、私共は約二ヶ月進駐軍と同居して昭和飛行機会社の後始末の仕事に追われた。— この間にも話は山ほどあるがここには省く。

 

   苦しかった労務管理

 それにしても学徒や養成工を含めて従業員約一万五千の大工場(海軍管理工場)の労務管理は容易ではなかった。特に学徒や養成工については職種の問題、職場配置、勤務時間、給与、通勤ラッシュ対策、寮の改造修理、食事等々今にして思えば付添の先生方御父兄の要求や学徒の要望は当然であって工場側が処置すべき条件であったし、学徒課長や勤労部長の真剣に取組まねばならない大責務でありました。

 尚こんなこともありました。軍需大臣がやって来て能率を上げる様、増産は軍の作戦につながらうぞ、頑張れ頑張れと激励、又軍需管理官(二十三、四の若い将校)も日夜はげまして廻る。頭がおかしくなるような気がする。生甲斐がなくなる様だ、精神的なものが何も得られない。芸能や文芸や何か文化的な講座か行事を計画するか補助してほしい — と度々学徒代表から要望があったがあまり実行が出来なくて未だに借りがある思いがしています。

 

   悲しい思い出!!

 おわりに敵機が間違えて(前記デマ参照)落したと思われる爆弾の微細な破片が腹部にささったのがもとで男子学徒の方が亡くなられたことが未だに私の心をさいなむ、ここに皆さんにも合掌して頂いて共々に彼の御冥福をお祈り致したい。

 本当に思い出は尽きませんがこの辺で筆をとめます。「昭和飛行機工場の少女達」のこの上のご健康ご発展とご多幸を心からお祈りいたします。また機会がございましたらお話し合いもいたしましょうし通信もいたしたいものです。

                      昭和四十九年六月十八日

 

O様は現在故郷の福岡県築上郡大平村の教育長としてお元気にすごしていらっしゃいます。)

 

 

 

 

 

※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)