飛行機の胴体の中で居眠り

  (S.K)

 

昭和十九年末頃から昭和二十年になりますと、戦争も漸く熾烈をきわめ、艦載機の空襲を受けるようになってきた頃には、各職場の壮年者までが召集令状により戦場に向い、その人員不足を補うためか、より以上の生産増強をはかるためか、多数の男女学徒が各職場で、生産に従事されるようになりました。女子学徒も組立工場、鈑金、機械工場、設計室、倉庫など、あらゆる職場で男子と同じような作業に“神風”の鉢巻姿で従事しておられました。

 その当時、私は九九艦爆の胴体組立工場にいて巣鴨商業の学生と、胴体組立の作業をしておりまして、連日の残業と徹夜作業の疲れで、組立中の飛行機の中で居眠りをして、巡廻中の監督官に大目玉をくらったこともあります。そのとき一緒に叱られた巣鴨商業のS君はその後どうしておられるかと、戦時中の事を思うとき、ふっとなつかしく思い出します。B29や小型機の空襲で逃げまどい、山林から多摩川原に出て細い橋をわたって避難したことなど、二十数年前にこのような経験をした私たちは、当時は毎日が苦しいことばかりであったように思うが今にして思えばその中にも案外愉しいひとこまもあったなあと思うこともあります。

 今回、思いがけず当時工場に動員されておられたというKさんはじめ三名の方の来訪を受けまして、いきなり三十年前の昔に戻ったような気がいたしました。うかがいますと、昨年青梅寮生の二十八年目の会をなさったとか、あの当時食べるもの着るものも思うにまかせず、苦しい毎日でありましたろうに、そのように昔を懐かしんで集まられたお気持ちは、当時昭和飛行機に勤務していた者として、まことにありがたく存じます。また、当時の生徒さんたちの思い出の文集を発行されるとのことで、その完成を期待しております。機会がありましたらぜひ皆さまにお目にかかりたいものと存じます。

 

 (K様は現在昭和飛行機工業株式会社秘書室に御勤務でいらっしゃいます。)

 

 

 

 

 

 思い出

  (M.E.)

 

 古い大きな家に、私は三人の年寄りと九才を頭に三人の子供と一緒に残されていました。主人は出征し、営業統制で商売は出来ず、どんな風に暮していたのか今考えても思いもつきませんが、そんなとき、昭和二十年でしたね。昭和飛行機という軍需工場に勤める近所の方のとりなしで、わずかな月日、武蔵高女の皆さんと一つ屋根の下で生活するご縁になったのです。

 年寄と女・子供で一年程さみしくて不安だったのが、大勢の若い娘さん達に朝夕接するようになって家の中にも活気がわき、子供達は大変はしゃぎ、疲れて帰ってくるお姉さん達にまつわりつき、ぬりえ、折り紙等を持ってお部屋にお邪魔に行き、いくつもの部屋を探してはつれもどすのでした。

 六時起床の合図に、お当番さんが手振りの鐘をガランガランと振りながら廊下をまわると、急に洗面所やお便所が賑やかになり、点呼の声もあちこちで聞こえ、毎日の疲れもなんのその“神風”と筆太に書かれた鉢巻をおさげ髪にきちんとしめた娘さんたちが、防空頭巾と鞄を肩から左右に下げ、軍手をはめて整列し、校歌や軍歌を元気に歌いながら百米程離れたもう一軒の宿泊所(魚久さんで、一年程前に火災で燃えて今はあとかたもなく駐車場になっています)に朝食に出向く姿を、ものめずらしく近所の子供達が幾人も幾人も玄関まで入って来て見送っていました。

 平和であれば、ご立派な両親の手元、愉しい女学校生活だったでしょうに、学校に行くかわりに軍需工場に毎日出掛け、油だらけになって飛行機の部品作りをさせられたなどと、今の十五〜十六才の子供さん、皆さんのお子さんには考えられないことでしょうね。学徒動員といいましたね。このような娘さんに里心がついてはいけないせいかどなたも面会などできなかったようでした。だから家族からのお手紙が待ち遠しく、夕方帰ってくると「おばさん○○ですが、私に手紙きてますか?」「私宛の小包ないかしら?」等々首を長くして待っておられました。

 八王子の大空襲の時は大変でした。爆弾で家屋が燃えるその明るさに映えて、雨のように降りおとされる焼夷弾が赤々と見えて、私などいやがる年寄をひきずるように抱えて裏山に子供と共に避難し、暁方、明るくなって戻ってみると皆さん達は都内においでの家族を思ってか一晩中まんじりともしなかったそうで……。

 今思えばもうそのすぐ後は、工場にも物資が届かなくなって、学徒の皆さんは仕事も無くなったでしょう。終戦直後はまだ都内に家族のいる人はすぐ引き取られたり、又遠い疎開先から家族の人が迎えにくるのを待っている人とかいろいろで、三三五五の別れでした。ガランとした二階の隅に布団の梱包が幾つか取り残され、舎監先生、幾人かの娘さんから引き揚げ完了のご挨拶をいただいた覚えがあります。

 私の家でも父子の代が変わり、息子夫婦は当時のことは何も知りません。今度皆様方があの当時の貴重な体験をなつかしみ、同時にその記憶をまとめられるそうですね。お役にたつかどうかお恥ずかしい次第ですが私なりの記憶を記しました。

 

 (E様は青梅のうなぎ屋“寿々喜” —— 当時の第二寮 —— の女主人でいらっしゃいました。昨年の“二十八年目の会”のとき、快く会場を提供してくださいました。)

 

 

 

 

 

(※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)