小作工場

  (C.A. 三回生・旧姓N)

 

   小作

 小作という駅が青梅駅の三つ手前にあるということは、それまでほとんど誰もが知らなかった。それは駅員さんがいるのかいないのかわからないような小駅で、立ちあおいやダリア、百日草の花が風に揺れ、何十分かに一本、古びた木製の電車が通るという、武蔵高女という、東京郊外の雑木林の中の女学校に通っていた私たちにも、それはひどく都離れた場所に思われた。

 小作駅から南のほうへ、麦畑や桑畑を歩いて十分くらい、多摩川に近い赤松の林の中に、ひっそり半分埋まるように、小作の疎開工場はあった。そこは道路からいくぶん低い場所で、私たちは朝、駅から列を組んで歩いて来て、道路から稲妻型に折れまがって、その小さい半地下の工場の前に立つのであった。それは百坪ほどの木造の建物で、入口の重い木の扉を開くと、グリスとおがくずとジュラルミンの切り屑の匂いがした。昼もうす暗いのだが、私たちには何がどこにあるかよくわかっていた。一階の土間にはプレス機が片側に、片側には作業台が並んでいて、中二階には材料であるジュラルミンの板がしまってあった。それは薄く油をひいた、飛行機の胴体用の薄板で、0.1ミリから2ミリぐらいまであったように記憶している。部品の注文があると私はそこへ行ってその薄板をひき出した。もうそのころには、表示を見ないでも0.5ミリと0.6ミリの差がわかるようになっていて、いっぱしの女工さんであった。

 一つの工場には五、六十人の女生徒が配置されて、本職の工員さんの数は十人たらずだったように思う。飛行機を作る軍需工場にも、そのころ ーー昭和二十年ーー には赤紙がひんぴんと来て、男性工員の数は不足しがちだったのだろう。この工員さんの指導で、私たちは本社でやっていたように飛行機の胴体や翼の部品を作っていた。今でいえば町工場みたいなもので、そんな工場が小作に四つあったはずだという。しかしそのことは当時は㊙になっていて、私は二つだけしかないと思っていた。そして、やはり㊙のせいか、もう一つの工場 ーーそこにも同級生が働いていたーー にも行ったことはなかったように思う。この小さな半地下のうす暗い工場と、そのまわりの赤松の林が、昼間の私たちの全世界であった。

 

   松林

 工場での作業は、午前中に一度と、午後に一度、そして昼休みがあったと思う。増産、決戦と口で言い、頭ではそう考えていても、実際には私たちは疲れていたのだろう、休み時間が待ち遠しかった。休み時間になると、赤松の林に寝ころんで空を見ていた。または、松林の南のはずれ、土地が更に低く多摩川のほうへ降りていくがけっぷちに並んですわって、とりとめもないことを話していた。がけっぷちといってもその崖は灌木におおわれて視界は全くきかなかったのだが……。

 それは全く時間が静止してしまったような、妙に明るく空白な時間で、多分あのがさごそとした雑草の上に身を横たえていた私たちは、戦争のことなど考えていなかったのだと思う。あるいは、戦争のことは無意識のうちに考えまいとしていたのかもしれない。

 敵のも味方のも、飛行機はあまり来なかった。㊙の“昭和の山なので、工場の人以外、人々がおとずれることはなかった。松風と蟬の鳴き声と、少女たちのささやきとで、眠ったように過ぎていった小作工場の昼休みの時間が、私が小作を考えるとき第一に思い出されることである。

 とりとめもない話…… その内容は何だったのだろう。家族の話 ーー大部分の人の家族は疎開したり、被災したり、出征したりしていたーー はあまり出なかった。話の上手な人は、友人からせがまれて、翻訳本で読んだ外国の小説の話を、思い出し思い出しして、話していた。私はそのころ漢詩が好きだったから、わけもわからず、 ーーこりようのしようはくてんぴょうにほゆ、さんじはるをたづぬればはるせきりょう……ーー などといっているうちにすぐうとうとしてしまうのであった。

 しかし、口には決して出さなかったけれど、大部分の少女たちが何を予感し、何を期待していたかが、今になってみるとわかるように思う。「紅楼夢」や、「風と共に去りぬ」のような外国の恋の話、「おちくぼものがたり」のような日本の物語、それはこの松林の中の半地下工場ではありうべくもない世界だし、また本土決戦、一人一人が竹槍を持って敵に向かおうと説かれている現実では、決して考えてはならない願望なのだけれど、一人一人の少女の心の底には“愛情、または恋”への漠然とした期待が芽生えて来ていたのだと、私は思う。

 もちろんそれは現在のようなおおっぴらなものでも、直接的なものでもなく、かなり抽象的な“愛情”への期待で、しかとした対象のあるものではなかった。しかし工場の数少ない男性の中にも若い人はいて“誰々さんは誰さんにお熱よ”とか、十中(今の西高)の誰とかさんが……”とか言う話は、本社にいたときしばしばささやかれたものであった。実際、工場の副主任とかいう、背の高い目のギョロリとしたHさんがまわってくると、手もとがしどろもどろになる友人が何人かいた。空襲で全員防空壕に待避するとき、工場の○○さんが同じ壕(全部で二十人ぐらいしか入れない)に入ってくるとはしゃぎ出す友人もいた。

 私はといえば、武蔵の上級生の、目の大きくすらりとした、中原淳一の絵が脱け出したみたいな、みんなの憧れのOさんは、どこの工場に行かれたのかな……と、声を交したこともないその人のことを思ったりしていた。

 

   × × ×

 

 小作の半地下工場には、素敵な技師さんも、動員男子学生もいなくて、中年の少しくだびれたおじさんばかりだった。(今にして思えばそれも工場側の深慮かとも思える。)だから少女たちの夢は、松林の中で、架空の、お話の世界に向かって限りなく広がって行った。

 思えば思春期の十四、五の少女たちが工場という男性の職場に投げこまれて、その方面の何の事故もなく終わったということは、今では考えられないことであろう。先生がたの御配慮、工場側の注意自戒、少女たちの潔癖さもあっただろうが、何よりも緊迫した戦時下の状勢がそのような事態を許さなかった、ということが大きな原因になっていたのではないかと思う。

 

   生活

 巨大な二千トンプレスがあり、飛行機の組み立て工場に隣接している鋲打ちのすさまじい音が耳を聾して、工員さんたちが右往左往し、時に軍需監理官殿がサーベルを鳴らして巡回し、出来上った飛行機が飛行場から飛び立つ、といった広大で活気と喧噪に満ちた本社から、どういう基準で私たちが小作工場に移されたのか私たちは知らない。そういうことについて私たちは疑問も不平も持たないのが習慣だったから。

 小作では八時半ごろ作業が始まり、五時ごろ終わって、整列して駅に戻り、自宅通勤の少数の人と小作駅で別れて、大部分の生徒は下りで青梅駅へ向かう。戦争末期は空襲による被害で、電車はなかなか来ないのだった。青梅駅からやはり整列して一寮と二寮へ帰り、お風呂へ入って七時ごろ食事、終わってから自室(六畳に四人ぐらい)に戻って、本社工場の友だちと職場の話をしたり、手紙を書いたり読書したりして就寝、という毎日であった。お風呂に入るときは板金作業のかすり傷 ーー 一度数えてみたら何と両手に五十余ヶ所あった!!ーー が痛み、粗末な食事を当時唯一のおやつであった僅かないり豆で補っていた。昼間の疲れで、夜は死んだように眠った。

 

   × × × ×

 

 小作工場での生活は、私の十六歳の春から夏へかけてのわずか五ヶ月に過ぎない。しかし、寮と、百坪足らずの工場と、そのまわりの松林という“全世界”で、すべての公式な思考は“戦争”というところで止まり、しかし私自身の感性は松林の中の雑草の上で無限に伸びていったという点で、強烈で、忘れがたい。

 

 

 

 

 

残響

  (M.S. 三回生・旧姓O)

 

   分工場

 今日も赤い朝鮮牛が樫の木の轅をひいて、鉄の輪を軋らせながら杉木立の中の崖道を、ジュラルミンの部品を積んで分工場から遠ざかっていきました。真鍮の鼻環からたらした引縄を把って、少し猫背のかわらぬ姿勢でその脇を歩いて行くのは、胡麻塩の、小柄な、粗末ななりのおじさんです。戦争ももう末期で、牛方牛車まで軍需輸送に動員され、私たち数十人の小娘が加工したジュラルミンの部品を一日一、二回、こののんびりした輸送方法で「昭和飛行機の本社」まで届けました。分工場は杉木立の中の一廻り道がまわった崖下にあって、敷地の境もない、白木の、というより木肌むき出しの板屋で、たしか床はなく土間で、そこにバイス台が八台か十台ぐらい、その両脇に細い縁台風の三、四人かけられる板の台、窓は高い位置にあったような気がしますが、昼休みのあと明るい陽ざしの中から入ると手許が暗い感じの採光でした。小屋の両端には、重い木の扉がレールの上を押して開く引戸になっていて、前の扉から後の扉迄が小屋の中の通路になり、通路の両側のバイス台をならべている、大体そんな造りでした。

 そのバイス台で私たち数十人の十五、六才のちっぽけなのが、ジュラルミンの板を型に合わせて切断したり、ドリルで穴をあけたり、鑢をかけて折り曲げたり、梱包、積出しまでやっていました。仕事の密度はあまり高くはなかったように思いますが、なかなか追いつかず、時には徹夜した記憶もあります。先生方は、はじめ徹夜には反対しておられましたが、なにしろ間に合わないので私たちの方から要望して徹夜したのでした。

 徹夜で思い出すのは見張り当番のことです。空襲と空襲警報にはいつも気をつけなければなりませんから、入口の扉を閉めたその外で、二人ずつ交替で暗い夜空を監視していました。過労と栄養不足のせいでしょう、忽ち睡魔に魅入られてコクリコクリとはじめます。呼び起こされると夜空一面影絵のような杉の梢の間からきらきら星がまたたいている、というようなことでした。そんな見張りの折や、バイス台での作業のさ中に落窪や今昔などの古い雅びた物語をきかせてくれた友達もありました。こちらは雅やかどころではない、カーキ色の粗布の作業着、男女の区別も定かならぬ作業ズボン、髪は紐かゴムでとめてカーキ色の作業帽をかぶっている。どうみても落窪のお姫さまとは縁がないが、当人たちは年相応の女の子で作業着の衿に白い布をかけたり、ズボンの裾のゴムを入れたりとったり、おさげを結ぶ紐を工夫したり、つまり心の中は雅びの願いに無縁ではありませんでした。

 

   寮生活

 話がどこかへ行ってしまいそうですが、どこへ行ってもよいことにして書き続けてみましょう。

 徹夜作業が終って青梅の寮へ帰る朝の眠かったことは忘れません。小作から青梅迄、十分か十五分でしょうか。防空頭巾を肩から斜めにかけ、吊皮につかまって行くわけですが、手は吊皮から離れ、荷物はストンと床に落ち、膝がガクリとして目が覚める、のを繰り返しました。立ち仕事が多く、栄養や運動の不足からでしょう、寮では夜半にこむらがえりを起こして悲鳴をあげて飛び起きることが相継ぎました。あの痛さを覚えていらっしゃる方もあるでしょう。寮の食事は丼にかるく一杯のご飯、賽の目のさつま芋入りや、大豆入りで、食べ盛りですからどうにも足らなくて弱りました。お菜は何があったか不思議に覚えていません。ただひもじい日が続いたことと、極く稀れに大豆入りのご飯に一塊のほんとうのバターが添えられて ーー このバターは寮の食事で出されたものではなく、先生の方から配ってくださったのです ーー その良質の脂肪の味のなんとも美味しかったことを覚えています。工場の昼食は、はじめ本社工場に入った時、臭くむれたかぼちゃがどうにも喉を通らなかった記憶がありますが、三日もすればそれにも慣れ、小作の分工場では昼食時を待ちどおしがりました。昼休みには工場の裏手の雑木林で網のような枝をもれてくる緑の陽をうけながらいささか充実した胃袋を天に向けて、とりとめのない空想にふけったり、とろとろと仮睡したりする愉しみもありました。

 

   桐の花

 桐の花はいつ咲くのでしょうか。小作の駅から分工場のある杉木立へむかって歩いてゆく途中、右手の畑の中に一本の桐が立っていて、それが香の高いうすむらさきの花をつけていたことを夢の中のように覚えています。駅から二列の縦隊をつくって行進してくる ーー 時には軍歌を唄いながら ーー その半途の目標がこの桐の木でした。本社工場から、空襲がはげしくなってこの疎開工場である小作へうつったのが二十年の四月頃だったのでしょうか、それから間もなく高円寺の自宅が空襲で焼けて、焼け跡で家族を探した覚えがあります。考えてみると小作工場で働いたのは、せいぜい四、五ヶ月で、桐の花は晩春か初夏の候かと思われます。ただこうやって書いてみると本当に桐の花だったかしらと自信がなくなってきます。三十年近く記憶の中をうす紫に漂っていた桐の花が本当でなかったらがっかりです。誰かやはりあれは桐だったと保証して下さいませんか。

 工場わきの杉木立の崖の日だまりでは嫰い緑ののびるがはえていました。上手にぬくと小さな小さな白い玉ねぎがついています。それを抜き揃えて休みの日に家に持って帰ったことがありました。いっしょに松ぼっくりも拾って帰りました。家が焼ける直前でした。のびるを味噌で和えてくれた母も、半ば戦時中の苦労がもとで二十五年前には亡くなりました。

 

   恐怖

 火に追われた経験はないのですが、機銃掃射をうけたことはあります。突然の警報で外へ待避する途中、伏せろという叫び声で雑木の根もとに小さく蹲まりました。鋭い金属音と弾ぜるような掃射の音で、私そのものが目標に選ばれて今にも背中に穴があきそうな熱いような夢中の恐怖でした。そんな急降下掃射が二度くり返されて、金属音と共に飛び去ってしまう迄一分とはかからなかったでしょう。からだを伸ばすと空は碧く陽はかがやいていました。

 恐ろしかったことといえば駅から工場までの夜道です。戦争もいよいよ最後のどんづまりの頃でしょう。初めに書いた牛車の部品輸送の合い間に本社工場へ部品を人の手で運ぶことがありました。ある日こちらの夜半の部品加工の完了をまちあわせて、本社工場から十人程の人がそれを受け取りにやって来て、もてるだけ手に下げて終電で帰りました。どういう気持だったのか、私は自分から希望して一梱さげて小作の駅までついて行きました。電車へのせてしまえばあとは何とかなるからです。その帰り道、電車が響をのこして消え、駅のうすあかりが人気もなくとり残されると、なんだか甘酸っぱいようにこわくなってきました。といって歩いて帰るより仕方がないので、今ではもう想像もつきますまい、まず一軒も家のない畑の間の道を、自分の足音だけきいて通りすぎて工場近くの杉木立の間に入ると、空の微光さえ下闇にかくれ、それこそ真の暗闇、体をかたくして手探り同様で下って行くと、ほの白い、二つの人魂が交互に高まり低まり躍るように近づいてくるではありませんか。声も出ず、動くことも出来なくなって汗をかいていますと、私に触れんばかりに近づいた人魂がすぐわきを通って私の来た道を上って行きました。こんな真夜中に白足袋の女性があんな場所を歩いていたとは今考えてみても納得がいきません。あれはやはり人魂だったのかもしれません。大きな世界にとっては何の意味もないことでしょうが、小さな私にとっては忘れがたい誰にも話したことのない記憶です。

 

   お菓子と娘

 まだ本社工場にいた時だったと思います。ある日慰労会が催されて種々の出し物がありました。その辺はすっかり忘れてまるで思い出せないのですが、ただ一つ、その頃有名な歌手四谷文子氏が工場の講堂(?)で、集った私たちにすばらしい歌をきかせてくれました。白く肥った軀をゆすりながら、文字どおり梁の上の塵もおどらせんばかりに唱いひびかせたうたは、今でも覚えています。

 お菓子の好きなパリ娘

 二人揃えばいそいそと

 角の菓子やへ“ボンジュール” 【註Ⅰ】

ではじまる「お菓子と娘」「お菓子の家」の歌謡でした。どうも私の記憶でははじめからのレパートリーの中にではなくて、アンコールに応えて唱ってくれたように思います。これらの歌が餓じく痩せて、あらゆる人類的な文化からきり離されて、実体を喪った愛国主義の中に閉じこめられていた娘たちにとってひどく印象的であったことは、記憶の悪い私が三十年経って忘れないことでもわかるのですが、実際この慰労会の後でたった一度まきちらされたこれらの歌が、いつの間にか一つに繋ぎあわされて歌詞もメロディーも再生され、私たちの間で折につけ暇につけうたい続けられていたことで一層明瞭です。私たちがどんなに「文化」に飢えていたことか、そして又私たちの「文化」を受け容れることは飢えた腸が甘露をすうが如くであったことがわかります。三十年後の「文化過剰」の現代はその辺どうなっていることでしょうか。考えさせられる問題です。

 

   “サンタ・ルチア”と“紅楼夢”

 歌については思い出すことがあります。勤労動員以前のことですが、まだ武蔵境の校舎に通っていた頃、といって戦争は敗色日々に濃く、私たちの周囲にはカーキ色や軍歌の他には何も許されなくなりつつある頃のわけですが、女学校というところはそれでもまだ戦争以外のよいものが残されており、それが私たちにとってかけがえのない救いであった、とこの頃そう思います。教科書に載っていたかどうかは忘れましたが、少くても原語では載っていなかった、「第九」の合唱をカタカナのドイツ語で、「サンタ・ルチア」をカタカナのイタリア語で教えて下さったのはたしか先生の御配慮で、その知らぬ言葉の発音とメロディーが私たちの胸に訴え、飢えをいやすこと一通りではなかったのです。もっとも当時の私はそういう文化的飢餓の自覚があったわけではないので、ただひたすら「スルマレルチカ、ラストロダルジエヘント……」に熱中していたにすぎませんが、今考えてみてこのカタカナ原語が何故あんなに感動的であったかはわかるような気がします。例えば「第九」の当時の翻訳歌詞を呟いてみると、どうみても明治以来の文部省小学唱歌の伝統です。そして周知の通り小学唱歌調は近代日本の教育政策です。カタカナ原語はそういう政策歌詞から飛び出して私たちを直接見知らぬ異国の世界へ、隠された人類的な文化へ連れて行ってくれたのでしょう。ましてやその時の音楽の授業では身ぶりも混じえてナポリの月やヴェニスのゴンドラの不思議な異国の姿と営みが先生の口から話していただけたのですから。

 こういうことはまだいくつかあります。工場の寮に入った後は本を読むということはかなり難しくなりました。寮には本らしい本はなく、私の僅かな「蔵書」も自宅と共に灰になり、残っていた本は「万葉秀歌」上下二冊の新書版だけでした。どうしてこの本があったのか今考えてわかりませんが、とにかくこれだけを後生大事に小作から青梅の寮迄往きかえり持って歩いて友達といっしょに口ずさんで感動したことを記憶しています。そんな中で先生が岩波文庫の「紅楼夢」全巻を貸して下さった時の感動は、これは忘れられるものではありません。「紅楼夢」の内容は殆ど忘れましたが、平和な世界の色彩豊かな男女の恋と葛藤の絵巻の強い情感が印象に残っています。

 私たちの、世界の文化についての当時の「教養」はこんなにも貧弱なものでした。戦時という氷河時代の洞窟に塗り込められて、飢えと寒さに脅かされ ーー というよりは、この洞窟の外には生活した経験がないという感じでそれなりに元気で ーー 割れ目から射してくる僅かな光で外の世界の「文化」に心のどこかで憧れていたというところです。洩れてくる光は僅かでしたが、それだけに却って印象は鮮烈でした。こういうほんの少しの人類的な文化的所産を通して私は、人間は ーー いうならば諸民族は ーー 何も戦争ばかりしていたわけではなく、地球上のいたるところに生活という豪勢な事実をくりひろげ、そして又、何時の日かは「第九」の「四海同胞」の大合唱に参加するであろうことを学んだ、とはとてもいえないが、暗示されたように思います。

 

   × × × ×

 

 ここまで書いて読み直してみるとわれながら新鮮な感動がなく、今更の懐旧談の感があります。三十年という年月は私の脳細胞の最後の一つまでとりかえてしまったでしょうし、時代の提起する問題そのものを入れかえてしまいました。これを書いてみてつくづく思うのですが、現代の問題は、只「あのような戦争を二度とくり返さない」のではなく、私たちの行く手から容赦なく近づいてくる全人類的な危機 ーー 例えば現代の世代の生存期間内に人類絶滅の可能性が充分にあるという、決して無視することのできないエコロジストたちの指摘【註Ⅱ】 ーー をしっかりと見据えて本気で「待った」をかけることでしょう。「戦後」はすでに遠く、私の幼い「戦中」もこの懐旧を残りの響きとしてお別れとします。

 

   ◇ ◇ ◇

 

 【註Ⅰ】この歌のつづきは私の記憶では次の通りです。間違っていたら教えて下さい。少し怪しい。

 ……選る間も遅しエクレール

 腰もかけずにむしゃむしゃと

 食べて口ふくパリ娘

 

 残る半ばは手に持って

 行くは並木か公園か

 空は五月の水浅黄

 

 人が見ようが笑おうが

 小歌まじりにかじりゆく

 ラマールティーヌの銅像の

 肩で燕が宙返り

 

 歌詞から云ってもメロディーから云っても、軽やかでハイカラで、気儘に自由に、しかも美味しいものを食べることが主題です。どうみてもあの戦時下の歌ではなく、戦時下に許されることさえ難しかった歌のように思われます。小娘相手のことだから見逃されたのかもしれませんが、著名な歌手がこれをうたったということは、もしかしたら淡谷のり子さんなどと同じように、多少とも戦時体制批判の意図があったのかもしれません。或いは自由で人間的であろうとすることそのことが、時局に対する批判になっているという一つの実例であるかもしれません。

 

 【註Ⅱ】現存の正しい情報を検討してみて、われわれは地球の当面している状況の深刻さに驚かされた。もし事態がこのままに放置されるならば、社会の破滅と、地球の生命維持機能の絶対的崩壊がおそらく今世紀の終わりまでに、われわれの子供たちの生存中に、必ず訪れるのである。(「人類にあすはあるか」英エコロジスト誌編ー時事通信社)

 

 

※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)