松籟

  (Y.T. 三回生)

 

 戦争がなければ、一生味わってみることもなかったであろう、桑の実や、生の青梅の味。お百姓さんの目を盗んで、それらのものをとった思い出。半地下工場(小作)の外にあった松林で、初夏のひととき、いっせいに寝ころび「目をつぶって松籟をきく。松籟とは……」とO先生の声。教室での机上の講義ではなかっただけに、松籟という耳新しい言語が、心にしみいるような美しさで驚いた。今でも松籟という言葉と共に、体の下になっていた落葉の感触を、頭や首筋に感じるような気がし、一気に二十八年前に引戻されるような気がする程である。もっとも、言葉を美しいと感じた反動からか、大分たってから聞こえ始めた松風の音自体は、一向に特別のものとも思えず、あまり感銘はうけなかったように覚えている。

 この原稿を書こうとして、始めて記憶によみがえったのは、戦後しばらくたってから、大掃除の時に、当時の給料袋が出て来たこと。勉強を止めねばならぬほど大切な動員だったはずなのに、金銭という即物的なものが与えられていた空しさ。

 反抗期の入口で、反抗どころではない状態においこまれたこと、一時勉強が中断されたために、いまだにそのハンディキャップを取り戻せず苦しんでいること、そのかわり、戦後再開された授業の楽しかったこと、私の性格から考えて、ずっと中断せずに勉強が続いていたら、勉強を楽しむことも、勉強に対する欲求も、あまり感じないままに終わったのではないかと思えることなど、良かったのか、悪かったのかわからないことも多い。

 いずれにしても、私達の体験は異常な時代のものであって、そのまま平常時に持ってくることはできない。その逆で、当時の先生方は、次々と新しい困難な事態に対処していかねばならず、さぞ大変でいらっしゃったことと思う。

 記憶はすっかり薄れてしまって、今ではなかなか思いおこせない。生来ののんきさ、忘れっぽさだけでなく、心の傷が深く、思い出すまいとつとめていたような気がする。思い出すことは断片的なことばかり。どう考え、どう位置づけし、将来に向かってどう展開していけばよいのか全くわからない。私達の体験が、現在に全く関係のない昔話として気軽に話せる時代が来ない限り、私の心の中では、第二次世界大戦の完全な終結は見られそうにないのである。

 

 

 

 

 

野ばら

  (K.H. 四回生)

 

 「竹の皮をお湯につけてはあかへんがなあ−。ぬれた竹の皮につつむと、水気をふくんで、竹の子が、あせして悪くなりやすいさかいに、ぬれたお布きんでふくのや、覚えておきゃしゃ」

 「私が死んだら、これを一人でこういうふうにするのや」とこれは竹の子の姿寿しをつくるために、おきよどころ(=台所)で禅尼さまから御注意を受けている私です。

 竹の皮は、かたくてかわいているからお湯につければよいと思い、昨年竹の皮をあつかったことを思いおこすこともなく、いともむぞうさに、お湯につけた竹の皮をみて、禅尼さまはやさしく教えてくださるのです。

 この竹の子のお寿しは、京都のお寺に古くから伝わっている方法で、竹の子の大きなものを十五センチ位に切り、縦に二つに割り、中のふしをとって、おこぶとしいたけとおしょうゆでおいしくしんみりと味をつけ、きりこぶをまぜたおすしのごはんを上にのせ、竹の子の姿を形よくまとめて、竹の皮につつんで、一昼夜、おもしをおいていただく、伝統的な竹之御所に伝わるお料理なのです。これに木の芽と花さんしょうのたいたのと、紅しょうがをそえていただくのです。東京の竹の子では、味がにがいのと、肉の厚さがうすいので、美事さはありませんが、こうして京都から取りよせた竹の子は、豊かな春の恵みを、あたりに感じさせる程幸せなものです。

 ずい分竹の子談義が長くなりましたが、私は武蔵を出るとすぐ、ここ小金井の三光院という禅宗の尼寺に入り、二十五年の間、ひたすらび、尼寺の修行をつづけてまいりました。武蔵では、S先生の級で昭和飛行機に動員に行き、小作の半地下工場で一生懸命働きました。一級上の上級生、二級上の上級生、そして私達、うすぐらい杉の木立の中の工場、切断機で指を切った女子工員の人の悲鳴、明けても暮れても真黒い牛のフンのような、さつまいものパン、じめじめと雨が降ると、しけった工場の中で、バラック建てのお便所にぬれながらかけだしたことなど、皆さま方のお顔や、お名前は忘れてしまいましたが、なつかしい思い出です。私は御嶽の沢の井さん(こちらの御奥様は一級上のM.K.さんです。)へよく伺いますが、もう昔の小作工場のおもかげはなく、あたりの草むらのみどりだけが、昔とかわっていません。

 

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 おひる休み、友達と丘陵ぞいに散歩に出た私達は敵機の機銃掃射をうけたことがありました。あわてた私達(相手は当時東組のR.S.さんだったと思います。)は土手にはらばいになって敵機のすぎるのを待ちました。そのとき私達のうつぶせていた土手には、一面野ばらが咲いていたのです。小さな白い八重咲の匂のある野ばらは、遠い思い出をいつもなつかしくはこんでくれます。いやな戦争でしたが、その中でも少女の頃を思い切り過したような気がします。

 

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 こうして、竹の子のお寿しをおしえて頂きながら、又、これを次の世代に伝承して行かなければと、生きていることの尊さや幸せを感じていた処へ、電話が鳴って、一級上のYさんから青梅寮のときの原稿のさいそくがあったので、大いそぎで記しました。

 私は、武蔵で勉強をあまりしないで遊んでばかりいましたので、ずい分成績は悪く、武蔵へも、つい伺いにくかったのですが、T先生が、もう時効だからとおっしゃって下さったので、これからは伺えると思っております。武蔵からずっと三キロ程真西に行くと私の寺、三光院があります。

 毎月高校一回卒の人々が集まって、五百円会費で四季のお料理を、一汁一菜で賞味し、宗教のお話をして楽しんでおります。そのうち大パーティー「武蔵高女会」をすることになっています。

 その時は皆様おでかけ下さい。

 これからは二世の時代になります。年をとったものです。もう四十三才です。これからが大事です。

 私には仏蹟参拝の為にインドに行きたい夢があります。武蔵ですごした楽しい思い出が一杯あります。 合掌

 

 

 

 

 

※文中の個人名はイニシャルに変更。その他のテキストはすべて原文のままです。)