二十八年ぶりの

  皆様に思いを寄せて

  (Y.N.四回生・旧姓T

 

 青梅線から見る車窓の様子、青梅の寮、黒光りしている急な階段、O先生、S先生、T先生、ほかの諸先生方、同級生の皆様、本当におなつかしうございました。何か胸の熱くなる感動を覚えます。二十八年前、私どもは最下級生で寮に入り今考えますと一つか二つしか違わない上級生の方々がお母さんのように思え、おしたいし、いろいろお世話になった記憶がございます。本当に生きていてよかった、と切実な思いがいたします。

 あの明日の命もわからない時代だからこそ寝食を共にしたお友達というものは二十八年間の空間があったにもかかわらず、昨日お会いした方のように「あらそう、それで……」とすぐうちとけいつまでもお話の輪がとけない、こんなすばらしいことがあるでしょうか。

 娘や息子がちょうどあのころの私どもの年代になり、現在の世相の変化があまりにも幸せすぎて、はたしてこれでよいのでしょうか。ものに我慢する精神、よういなことでは驚かない性格は、戦争を体験した我々でなければ得られないものだったと思います。

 ほんとうにすばらしい会を計画された係の方々に心から御礼を申し上げ、我が母校の発展と皆様方の御健康を心からお祈り申しあげます。

 

 

 

 

 

 “二十八年目の少女達”

    放映の経緯

  (M.N.三回生・旧姓T

 

 四十八年六月二十八日、TBSテレビの朝のワイドショーに写し出された“二十八年目の少女達”には、たくさんの人々からこんな批評がよせられた。みんな揃ってあたたかさと品があり 発言が適確でしかもサラリとして気負ったところがない 何者かと、聞いている中に最後に一言“東京都立武蔵高等女学校” ヘエ たいしたエリート女学校だなアと感心したというのである。

 

 ところで 私は長年テレビ・ラジオの仕事にたずさわっていたが 三年間 乳ガンの手術をうけ、その仕事を退いた。

 死と向かいあった時 パアッと頭にうかんだのは 機銃掃射に追われて桑畠を逃げまどった あの動員当時の光景だった。がん病棟の手記として“誰も知らないあした”を昨年出版し 一段落ついたところで あの生れて初めて死というものを意識した土地をたずねてみたくなった。

 私は 早春の一日を 二十八年前の少女の日を求めて昭島、小作、青梅と歩いた。

 戦後すべてが 激しく移り変った中に これほど戦中そのままの姿で残っていたとは!と興奮してしまったほど みんなそのままだった。

 昭和飛行機、あの第六工場も、スレートばりの大食堂も昔のまま、正門広場の五本のヒマラヤ杉、“お山の杉の子”を聞きながら昼食待ちの列を作った銀杏並木の彼方には あのころと同じように くっきりと富士があった。

 小作では桑畠はどこへやら、新建材の家が立ちならび迷ってしまったが 当時小学生だったという酒屋の主人が“武蔵高女のお姉ちゃん達が来ていた昭和の山”というのを教えてくれた。

 住宅街のはずれ 急傾斜の暗い杉林が 半地下工場の埋め立てあとであった。

 さて 青梅寮は 私がここで説明するまでもないが ホコリがバサバサ落ちてくるからといやがるおかみさんに無理を云って 私達が大荷物を背負ってひきあげた終戦の翌日から雨戸をたてたままという、かっての自室に上った。そのとき胸に迫ったおもいは、二、三、四回生の皆さまにはお察しいただけると思う。

 食事と風呂に通った一寮 魚久の建物もくずれ落ちんばかりの姿でそのままあった。(四ヶ月後の会の当日には消えてしまっていた。)

 

 こんな風に 少女の日の昔を今に再現する大道具がたしかめられたところへ あの会の通知が舞いこんだというわけである。聞けば K(旧姓Y)さんが終戦前夜 北京の母君にあてられた涙なしでは読めないような手紙も 小作の郵便局長からかえされてきたという。

 長年の商売がら これは良い番組が作れるのではないかと TBSのディレクターに相談した。

 ディレクターは“終戦二十八年目の会は、今非常に多いけれど、何故二十八年目にしてはじめて集る気持になったか、それが単なる流行でなくて 生れるべくして生れた現象であるなら それを問いつめてみるのも意義あることですね”といい 充分の資料を集めることができれば 朝のワイドショーで放映しようということになった。

 S先生 幹事のみなさんに計り御賛成をいただけたので ソレッとばかり小道具集め、私の日記など探し出したが その夜遅く、実にパンチのきいた小道具がT(旧姓I)さんの押入れから出て来て 放映九分通りきまりとなった。特攻機を送る武蔵高女生達という当時の新聞記事二種、Tさん図解入りのDC8型 九九艦爆などの部品生産日記である。(その他放映当日には みなさんから神風鉢巻、給食票、写真、献立控えなど御協力をいただいた。)

 早速その夜、企画書を書いた。内容は、今、当時の自分達と同じ年頃の子供を持つ母となって、あのきびしい時代が自分達に何を与えたか、そして今、戦争はからくもさけ得たものの おそろしい環境破壊などの不安の中でもう一度 今の生き方を問い直してみたい といった趣旨のものである。

 あとは ディレクターのプランにしたがって 六月二十四日青梅の会の撮影 二十八日早朝 TBSテレビにできるだけ多くの三、四回生のご出演を という運びになった。

 ただただおなつかしいS先生御夫妻、あまりにもお若いO先生、少女時代のあこがれの君、N先生、運動神経劣悪の私がさんざん御迷惑をおかけしたT先生、そして、OKYの先生方のフィルムをまじえて集った二十五人が当時の苦労、今のおもいをこもごも語りあった。放映時間はアッという間に終ってしまったが、二十八年目の少女達には それぞれに充実した人生を生きてきたことを思わせる何者かがあったのであろう、それが冒頭にのべたような感慨を、見る人に抱かせたのであろうと思う。

 なお、テレビの取材ということになると しっとりと心を暖め合う二十八年ぶりの会の雰囲気を、土足で踏みにじるようなことになりがちである。注意はしたのだが、多かれ少なかれ不愉快なおもいをなさった方もいらしたのではないかと大変気にかかる。心からお詫び申し上げたい。

 

 (M.N.さんはもとTBSに勤務。乳ガンで退職されてからガン病棟の手記“だれもしらないあした”を出版されて大宅賞候補になった。また文芸春秋四十八年十二月号に“ガンとどう闘うか”の追跡ルポを書かれている)

 

 

 

 

 

※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)