青梅寮での再会に至るまで

  (N.K. 三回生・旧姓Y

 

   一通の封書

 戦争中の記憶もうすれてきた昭和四十三年の夏日、私は見知らぬ方からの一通の封書を受取りました。その封書の中には私の旧名が書かれていて「昭和二十年の春ごろ、貴殿が小作のSさん宅の寮から、皇国二七六○の工場へ学徒で動員されたことがおありではなかったか? このときのあなたの手紙が戦後只今まで保存してあるのでごらん頂きたいこと、先般武蔵高校の名簿であなたの住所が判明したこと、しかし若し本人が貴殿でないと困るので当時の状況など聞かせて欲しい」等のことが書かれていて、発信人は当時の土地の郵便局長さんでした。

 すぐにでも飛んでいって詳細をお聞きしたいものの、そこは嫁の子育て盛り、時間もなかなかとれなくて、親友だったTさん(当時小作の寮長)をお誘いして、ようやくその年の十二月に、二人で羽村の郵便局をお訪ねしたのでした。

 局長さんは私達を小作寮あとまで連れていって下さり、保管してあった手紙を私に手渡して下さいました。それはまがうことなく私の字で、終戦が切迫していることなどゆめゆめ知らず、勝つまでは一生懸命働きますとこまごま書いて、北京にいた両親へ宛てたものと、疎開した家族、信州の祖父母へ宛てた二通でした。当時軍需工場では憲兵が郵便を検閲し、少しでも軍の機密にふれるものは破棄されていたらしく、その中にあった私の手紙が偶然にも終戦と同時に焼却をまぬかれたため、その局長さんの善意で保存されていたのでした。

 

   終戦の日

 小作の寮は連れていって頂かなければ到底解らないほど、新しい自動車道路が出来ていて途中の風景も変っていましたし、蚕室だった寮はとりこわされていましたが、そこに立つとあの終戦の日の蟬しぐれが、初冬の竹藪から湧きあがってくるように思えました。

 終戦の日は電休日で、寮の皆さんは自宅に帰っておられました。青梅の寮で昼食のジャガ芋とキュウリを食べ、近くのラジオ屋さんへいって重大放送というのをきいたのですが、それはあまりよくききとれませんでした。

 午後私は小作の寮へ一人で帰っていきました。家族との疎開を拒みつづけ、祖父母と幼い妹達を信州へ送って焼土東京に一人でいる決心をしていた私、学校の寮へ身を寄せていられることが唯一のたのみであった私、悲しいから泣くというのではなくて、あの日、複雑な気持で涙が堰を切ったようでした。そこを鍬をかついで通りすがったのがこの家のおじさんでした。おじさんはちょっと縁側へ腰をおろして、ガッカリしたように「日本は敗けたんだよ!(この時始めて敗けたという言葉をきいた)あんたが泣くのも無理はない、でもあんた、もう十年たってごらん、いや二十年からな、日本はアメリカさんと仲良くなってるかもしれないよ」それは泣いていた私への声でもあり、おじさんのひとりごとのようでもありました。終戦の日の蟬しぐれ、それが私の記憶に返って来たのです。

 

   Sさん宅にて

 学徒の私達は蚕室を提供された家主さんのSさんも知らず、ごはんの世話をして下さったSさんも知りませんでしたが局長さんが連れていって下さったのは寮の母屋だったSさん宅であり、おじいさんはあの日私に声をかけて下さったおじさんだったのです。あれは終戦の日の、ふとした会話でしたが、あのとき気が遠くなるように思った十年、二十年の歳月を経るうちに私はおじさんの言葉を思い出すことがよくありました。

 今、不思議にも一通の保存された手紙を奇縁に小作のSさんのおこたで再びお目にかかれるなど、連れてきて下さった局長さんもこれにはびっくりされ、それはよかったよかったと喜んで下さり、今は耳が遠くなられたおじいさんに大きな声で説明して下さるのでした。一緒に来て下さったTさんも、私も、感激の涙をこらえるのが精一杯の歓談でした。

 

   再会まで

 桑畑と茶畑のおもかげが残る小作駅への道を帰りながら、Tさんは「Yさん、これを機会に青梅でみんなが再会する日を、きっときっといつの日かつくりましょう」「ええきっと!」。この感激の約束が、青梅寮で再会の糸口となりました。それが実現するまでには更に五年の歳月が経ってしまったのですが。青梅の街へTさんの下見、寮の確認、そこで会合の交渉、そして寮生の方々の記憶をたどってお手紙を出し、声をかけ合って御住所を調べ、四回生のIさん、Iさんも力をあわせて下さって数回の下相談をかさね、多くのお友達の御同意と協力を頂いて、この度先生方を囲み念願の会を持つことが出来ました。いみじくもこの発端をつくることになられた羽村郵便局のE局長にも出席して頂きました。あの時のままの、今は畳の香も新らしい寮の二階に坐して六月の風を浴びながら、もう空襲はないんだ!と夢のようにそのことをたしかめ、この生命を次の世代へ大切に……と、新しい課題が私達の手にのこったのです。

 

 

 

 

 

 再会に思うこと

  (H.T. 二回生・旧姓O)

 二十八年の長い歳月に、学徒動員、青梅寮の記憶も断片的になっておりましたところへはからずも当時の皆様方と青梅で再会、語りあう中に、私達の青春とは何であったかと、つくづく考えさせられました。息子達には通じない戦時中の話、けれど社会に出たとき、体験を通して生活してきた親から何か得ることがあるのではないでしょうか。息子達を戦争に出す不安はなくなりましたが、苦労性な母は目に見えない公害に今から孫のことが心配でなりません。めまぐるしく変る世の中に、昔の思い出に浸ってばかりいられず、これからの日々のために自分なりの努力をして行きたいと思っております。