二十八年目の再会

  (I.M. 三回生)

 

   “寿々喜”で

 タイトルどおり私共は二十八年ぶりに青梅の“寿々喜”を訪ねました。

 ここは、私共が学徒動員で昭和飛行機に通っておりました時の寮になっていたところです。

 つい先日、この日の再会を約束した方、文字どおり二十八年ぶりにおめにかかる方々、それはそれは懐かしい集りでした。

 もう昔のことなのです。霞の彼方に葬ってしまった記憶を、今再び呼びさまそうとしているのです。

 青梅の駅から寿々喜にたどりつくまでの道々には残念ながら当時を思い起す何物をもみつけ得ず、記憶喪失症に似たいらだちさえ覚えました。

 話がはずむほどに少しずつ蘇る記憶、私が泊めていただいた一番奥の部屋が漸く思い出せるようになりました。仲良しだったR.M.さん(旧姓)が、丸焼けになって途方にくれていた私を誘って泊めて下さったお部屋です。幾日ぶりかで布団の上に足を伸した時のあの安堵感。思い出しました。その後S.Y.さん(旧姓)と一緒のお部屋になり、ずい分とお世話になったことでした。

 

   思い出せば……

   — 倉庫・進捗班だった私 —

 朝になると私共は隊を組んで各職場に向かいます。

   なびく黒髪 きりりと結び・・・

   今朝も朗らに 朝つゆ踏んで・・・

   ・・・

 私は倉庫の進捗班というところに配属され機材・管財・型材等飛行機の材料を出入庫伝票によって出し入れし、あるときは指示された長さに切断機をつかって切断して出庫しました。この数量を帳簿に記入し、後でグラフにまとめたような気がします。毎朝ソロバンの稽古に事務所まで通い、それが済んでから仕事にかかりました。注油しながら鉄材を切る時の金属音、太い棒材の時は何時間もかかるんです。悠長な話です。鉄銹と機械油の臭が暗い倉庫の中に充満し、吐気を催すこともありました。一日の作業をおえ、まっ黒く油汚れした手を再びドロドロの油につけて洗い、後魚油で作った石けんで洗い終わると何ともいえないくさい手になってしまうのです。それでも文句一ついわず、ただお国のためという信念をもって、今思えばどれほどお役にたちえたのかわかりませんが、無心に働きました。

 裏の飛行場からそっと飛びたつ小さな飛行機、その飛行機には私どもと同年代の青年が、紫色に頬をひきつらせて乗っていたのです。この飛行機を見送ったときもほとんど無感動だった気がします。

 家が焼け、教科書はじめ大事なものすべてを焼失してしまったときも、涙一つこぼさなかったはずです。涙という感傷は何処かへ行ってしまったのでしょう。涙が出るようになったのは戦の終わったことを実感として味わったその日からだったと思います。

 

   いま思うこと

 苦しかったこと、悲しかったことがなかったはずはないのに、皆様のお話にはその言葉が一言も出てきません。しかもつらかったはずのことが、楽しかった思い出として今語られているのです。全く不思議なことです。

 終戦記念日が近づくときまって当時のアレコレが報じられます。人各々に感じ方、受け止め方は違うと思いますが、それにしてもみるたび、聞くたびに心の中で叫んでしまうのです。違う!違う!と。何故か虚飾されているのです。戦争を知らない若者はこれをカッコイイ!と評します。おそろしいことと思います。けれど私自身これを否定しながら訂正することが出来ないのです。いえばいうほど真実と違ってしまうのです。余りの腹だたしさに当時のことはすべて胸中深く封じ込んでしまうことにしました。忘れようとつとめました。

 そして二十八年、私どもは元気に明るく生きています。社会人として、妻として、母として立派に生きています。

 日本の、否世界の歴史の重要な一頁を生きぬいた、しかし二度と繰り返してならない体験を経て私どもは成人したのです。

 あの夢多き日々のことどもを、今しみじみとふり返り、このたびの青梅における再会は、本当に有意義であったと、心から感謝しております。

 

 

 

 

 

 集いえた喜び

  (C.A.三回生・旧姓A

 

 会合についてのお知らせを頂いたのが六月一日、それから六月二十四日迄、まるで子供の遠足のように私はその日の来るのを指折り数えるようにして待った。快よい梅雨の晴間に恵まれて私は千葉県松戸からはるばる青梅迄三時間の道程を国電に運ばれて足をのばした。今日会える友の顔、旧姓Iさんのこと。Yさんのこと。それからどなたがいらっしゃるのだろう。私にとってはどの方も二十八年ぶりの方々なのである。というのは私は武蔵卒業後東京女子大に進みここの同窓会やクラス会に出る機会は多かったのですが武蔵の同窓の方々とは心ならずも御無沙汰していたため、このようなことになってしまったのです。

 青梅線の中でどなたかいらっしゃらないかとグルッと見回すといらっしゃいました。それは旧姓SさんとYさんでした。二十八年の歳月といえばいわゆるひとむかし(一昔)の約三倍の長い時間が経過しているのに、この友の顔を見たときとてもそんな長い時間の流れは感じられなかった。そして会話を交すうちにSさんのあの独得のニュアンスのある性格も少しも変っていないのが懐古への出発点となった。会場の「寿々喜」に着き受付にいらした旧姓Iさんにお目にかかる。すっかり重みのでた、でも面影は少しも変わっていらっしゃらない。“懐かしい”と思わず目をみつめる。

 お席の方にはもう三○人位の方々が席につかれそれぞれに談笑していらっしゃる。先生方のお顔がまたとても懐しかった。S先生、お年を召されたなと思ったが当時は活発な活気に溢れた先生でいらした。私は地理の時間の授業の一節を覚えている。それは満州国の地形について。当時あった満州国というのはその恰好が丁度人間の姿のように頭、胴体、手脚、とも受け取れた。それを先生は説明されて「支那に向かってゲンコツでなぐり、日本に向かってはいい子いい子をしているのだ。この国の地形はこのようにして覚えなさい」といわれたのだった。

 若々しくて少しも変わらないO先生。袷の「ふき」がきれいに出ないで泣かされたY先生。私を可愛がって下さった体育のT先生。etc.

 名簿を頂き自己紹介されるひとりひとりの方々をしみじみと眺める。あああの方がこのように、この方がこんなに立派になられてと。もうこの時頭の中は当時の武蔵だった。友よ、今日此処に集い得て本当によかったと思う。忘れかけていた数々の想い出が脳裏に甦ってきた。苦しかった戦争の体験も今は少女だったころの想い出の一駒としてかけめぐっていた。

 あれから二十八年。私にとってそれは多事多難の二十八年間であった。押寄せる大波を一つまた一つ乗越えて今此処にいる自分。私は人生の縮図を見つめる思いだった。終りにそれぞれに忙しい仕事を持たれながらこれを立案、実行してこんなに実り多き会合をひらいて下さった有志の方々に心からの感謝とお礼の気持で一杯である。

 

 

 

 

 

 旧友

  (M.T.三回生)

 

 二十八年前の先生方の面影を頭に浮かべながら、想い出そうとしても想い出せない旧友(クラスメート)に逢えると言う喜びと期待と一緒に、何かふと不安を伴うのは何故か…、若い頃のようなときめきは叶わないけれど相応のときめく胸をはずませて会場に向った。会場に近づくにつれて、そこかしこに昔の面影を残した路を歩いている自分が、別の人のように思えるのは何故か物哀しく、その気持は、席に坐ってからも暫くは消えなかった。

 自己紹介と学徒動員時代の青梅の寮での懐かしい思い出の一駒ずつが次々と紹介されてゆくうちに、胸につけられた名札と面影とを整理しながら、ついさきほどまでの思いが何時しか消えてただただ時間が急速にさかのぼっていった。想い出されて来た旧友一人一人、そして青春時代のつらかったこともみな懐かしさとなって、グッと熱いものがこみ上げてくるのだった。みんな同じ気持ちだったと思う。

 私もこれまでにこの荒い世の波風に押し流されず今日までよく生きて来られたものと旧友を見、旧友と語って、しみじみと月日の流れの早さを知るとともに、このひとときがあのころの青春にかへり、先生と旧友と睦まじく昔を語り現在を語り合うことが出来たことを、御出席下さった先生を始めお世話下さった方達に感謝した。それとともに、将来それぞれ歩んでゆかなければならない人生を平和で送ってほしいと心から願ったのだった。

 

 

 

 

 

 再会のあとで思うこと

  (S.A.四回生・旧姓I

 

 私は、卒業以来二十数年ぶりに青梅寮の会があるとの知らせで、おどろきと、うれしさでいっぱいでした。そして会の日まで毎日、忘れかけていた戦時中の女学校時代の生活がつぎつぎと頭にうかび、眠れぬ夜もあったほどでした。

 やっと待ちに待った当日、私は朝早くからはりきって家を出ました。電車の中では、二十数年ぶりに会う友の顔を想像しながら、私のことおぼえているかしらなどと不安にかられながら、青梅の地につきました。先生方はじめ同級の方々の昔なつかしいお顔に接し、ただただ感激で胸がいっぱいでした。

 そして会食しながらつもる想い出話に時間も忘れ、一日をたのしくすごすことが出来、出席できたことを嬉しく思いました。

 あの日以来、あのころの私と同じ年ごろに成長した我が子をみて、私達は戦争により、いろいろの体験をし、勤労、忍耐、努力、倹約等の基本を身をもって教えられたのだなアとつくづく感じています。しかし、今の若い人達は、戦争も知らず、のんびりと育ったせいか、彼等の観念は全く、我々の時代と反対なため、日本は、これらの人達により、今後どのように変わるだろうかなどと、今は平和であるだけに、なにか不安を感じる今日このごろです。

 ほんとうに意義あるたのしい一日でした。

 

 

 

 

 

※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)