ぜひまた集まりの機会を

  (E.S.三回生・旧姓H

 

 戦争を知らずに育った娘たちが、そろそろあのころの私の年令になりました。ひもじさと、空襲の恐ろしさと、飛行機づくりの中で送った青春、でもまごころとか、必死さとか、何か現代で失われつつある心があったことも、子供たちに教えてやりたい気持の現在です。

 当日は残念ながら欠席致しましたが、なつかしい皆様や寮の様子などテレビで拝見して、涙がでてまいりました。

 本当にうすれてしまっていたあのころのことが、いきいきとよみがえって、本当に私達のこれからの生命を大切に生活してゆきたいと思います。勉強してゆく上にもまた皆様との集りの機会を作って下さることを希望しております。

 

 

 

 

 

 懐旧、そして

   人の生き方とは

  (H.N.三回生・旧姓S

 

   その朝

 その朝二十八年前の記憶を辿りながら、青梅線に乗換えるべく立川駅のホームに降りると、階段の位置も、青梅線出発位置も大分変わっているのにやっぱり二十八年の歳月を改めて感じとった。

 勤労動員学徒として、国防色の上着とズボンを着け鉄カブト(ヘルメット。今のように綺麗でカッコ良くない)を肩から斜めに背負い、もう一方の肩から頭巾をかけ満員の殺人的電車につめ込まれ、押し込まれた青梅線も今はいくらか優雅な車体に変わったように思われた。

 恋人に逢う前夜の如く一時間毎に目を覚まし、待ちに待った六月二十四日の日曜の朝である。こちらからMさんMさんの三人、そして立川駅でSさんNさんに合流したころはもはや女学生の気分に戻ってワイワイガヤガヤ(最も昭島という駅名に変わっていたけれども、昭和飛行機の正門は昔のままの姿。神風のハチマキをしめて整列した広場も電車の窓越しに、一瞬にして通り過ぎてしまったけれど昔を彷彿させるものがあった。広い飛行場もそのまま残されているようであったし、B29襲来の初期の頃、木槌をもって逃げた雑木林の裏山もあのままだろうか……。)

 

   懐かしさ

 立川駅から三十分ほどで青梅着、さすがに緑濃い奥多摩。駅は昔のままの姿とか…。私は昭和二十年の初頭に静岡へ疎開し、青梅寮での生活経験はないけれどもMさんからお誘いいただき先生方のお顔、なつかしいお友達にお目にかかりたくてまかり出たわけなのである。

 会場に当てられた二階のお部屋に入ると、まづもって先生方の御健在なお姿、お顔、S先生、O先生、T先生、O先生、Y先生、何と先生方のお若いこと!!…にびっくり、しいて言わせていただくとS先生のおつむがいくらかうすくなって、T先生が多分昔はひっつめで後にオダンゴにまるめていらしたのが今はショートカットと変わったくらいで、私達だけが年を取ったのではないかと思われるほど。お一人お一人先生方のお顔をじっと眺めてしまった。

 同期生、上級生、下級生と続々と参集、雑談の中に忘れていた記憶がよみ返り“あああの方”と十五、六才のころの面影が次々と現われる。ただもうなつかしんだり、驚いたり。この我々の感ずるなつかしさというものは、平和な時代を学生で過ごした人々とは違った、密度の濃いものであると思う。毎日毎晩空襲に明け暮れ、明日の命さえわからなかった毎日を飛行機の増産早産で工場で働き(今になって考えてみると何の疑いもなく従順に良く働いたものと思う。)

今日も明日もあさってもナッパばかりのおかずでお米の姿のわからないようなおかゆで、育ち盛りをよく通り抜けて来たものと思う。誰も彼もお金の有る人も無い人も同じ生活状態の中に夢多き女学生時代を過した物どうしだけが感ずるなつかしさ、そんなもののような気がする。

 

   人の生き方

 自分達の子供があのころの自分と同年輩に成長した今“世の中変った”と感嘆せざるを得ないのである。私たちはオバサマ族と呼ばれる年齢になったわけだが、奥様の座に安住することなくほとんどの方が御自分の仕事を持ち、社会に貢献しておられる。家庭にいらっしゃる方も何かの形で指導的立場に在って活躍していらっしゃる。そして皆様生き生きと若く、知性の美しさを持っておいでなので感心してしまった。(私もガンバラナクッチャ……。)

 青梅寮での再会は懐旧の情を暖めるのに充分な会合であったし又それ以上に、人の生き方というものを大いに啓蒙された一日でもあった。

 そしてその上、TBSテレビに放映され、ビディオテープにも残され青梅での会合がよりいっそう意義深いものになったと思う。この会合のために、御多忙の中、御世話下さいました方々に改めて、御礼申し上げたいと思います。

 

 

 

 

 

※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)