よみがえる思い出
(R.I. 三回生・旧姓Y)
昭和四十八年六月二十四日、青梅寮での二十八年ぶりの再会は、ただただ感激で一杯でございました。若々しくお健やかな先生方、ほんとうにおなつかしゅう存じました。あのころと少しもお変りにならない方、ますます美しくなられた方、すっかり貫禄がついた方、それぞれ違った社会で御活躍されている皆様と、二十八年前の親しさでお目にかかれましたのも、あの戦時下に、同じ屋根の下で生活をしたお仲間だからなのでしょうか。
昔から書くことの苦手な私の手許には、当時の記録は何一つ残って居りませんし、育児に追われたここ十数年、記憶も確かなものとは言えなくなりました。しかし、ふと通りかかった町工場の機械油のにおいに、あの騒音の大工場の中にいる錯覚を感じ、生い茂る夏草の草いきれに、昭和飛行機の裏山の防空壕がまず思い出されます。
お話がはずむ中に、十年前、二十年前のことよりも鮮やかに、当時の思い出はよみがえってまいりました。窮乏生活の中にも、私どもはいろいろ楽しみをみつけ、諸先生方をはじめ、両親、周囲の方々の暖かい庇護のおかげで、幸せな日々を過しました。でも今、ふり返って、あの無謀な戦争に強制的に参加させられていたことを思いますと、背筋に冷たいものを覚えます。そして、すでに当時の私どもの年齢に達した子供たちに、真の幸福な社会を引き継がせる責任の重さをひしひしと感じました。
青梅寮の集いに寄せて
(F.T. 三回生・旧姓U)
過日は、思いがけなくもあの青梅の寮で、皆様と御会い出来ましたこと、本当に嬉しく存じました。長い年月にいつとはなしに薄れてしまった記憶も、お会いしているうちに甦り懐しさで一杯でした。また先生方も多数お見え下さり、三十年近い歳月を経たことが嘘のように、お若くお元気そうなのにいささかびっくり、本当に楽しい一日でした。
思えば私達は、あの終戦の日を挟んで戦中と戦後の数年間を、若い命の芽が一番激しく伸びようとする、人生の最も大切な時期に、過すはめになったのです。それがもう少し若くても、もっと年を取っていても、その時代から受けた影響は全く違っていたことでしょう。
夜昼なしの空襲に脅かされながら満員の電車(当時は座席も三分の一くらいに減らされ、窓ガラスも破れ、ひどい車輌でした。)で工場に通い、果ては、空襲で交通が途絶えたときに生産が遅れるとの理由で、青梅寮に罐詰にされたのでした。
山のようなジュラルミンの部品を前に、来る日も来る日も同じ作業を延々と続け、警報が鳴ると慌てて壕へ飛び込み、B29の爆音を頭上に聞きながら息を呑み、敵機が去るとほっとしてまた仕事に戻るのでした。
今日はやられるか、明日は私の番か、どうせなら一思いに死んでしまうように……と願ったりして、今から考えると全くひどい生活で、夜は空襲警報の度に待避するので眠られず、着る物、食べる物も最悪で、昼は工場でハッパをかけられその上また空襲ですから、とても正気ではいられないように思えるのですが、当時は意外と皆のん気で、陽気で、休み時間には歌も歌うし、壕の中でも敵機が近くないときは、にぎやかにおしゃべりしたり結構楽しいときもあったのですから不思議です。つまりどんなひどい状態でもだんだんに馴らされてしまえば、あまり感じなくなり、ついにはそれが、当たり前のような気になるということ、恐ろしいことだと思います。馴れるということは、生活上大変便利で、必要なことではありますけれど、生きて行く上には、絶対に馴らされてはいけない、断固拒否反応を示さなくてはならぬことがあるということを、忘れてはならないと思います。
戦争という経験
(K.N. 三回生)
三十年近くの歳月を経過し戦争時代の旧友と再会し今あらためてあのころのことを思うと、つらかったことも苦しかったことも、今はただ楽しい思い出として私の心に残っている。今、戦争は悲惨なものむごたらしいものと叫ばれ、二度とああいう経験はしたくない、子供達にはさせたくないというけれど、私は自分の人生に戦争という経験をしたことはほんとうにいいことだった、と思う。今の若い人から見ればさながら灰色のように見える青春だったかもしれないがそういう、平和なときには想像もつかないような経験をしたということは、これからの自分の人生にどんなことが起きようとも、強く生き抜いて行くことの出来る底力のようなものを戦争の日々の中でつちかって来たことのように想う。そういう観点から考える物質文明の中で甘く成長してゆく自分の子供達が果して人間として幸せかどうか、疑問に思うこともある。
とにかく世の中は変ったものだと思う。
(※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)