学徒動員のころ

  (S.K. 三回生・旧姓J)

 

 “なびく黒髪 きりりと結び 今朝も朗らに朝露踏んで・・”

 声高く女子挺身隊の歌を歌いながら、昭和飛行機工場の門をくぐった毎朝。枯れ葉色のスフの上衣とズボンで男の子のような服装に、防空頭巾を肩から下げ、鉢巻をしめて、毎日ハンマーを手に働いていたあのころの私達の姿が思い出される。

 鋸の刃のようにギザギザと続いた工場の高い屋根。その中の一隅が私達の職場だった。小さな木型にそれより少し大き目の薄いジュラルミンの板を乗せて、木のハンマーで軽く叩きながら、その木型通りに曲げてゆくのだが、丸い所などは性急にすると割れてしまって、始めのうちは失敗作も多かった。でも、この小さな部品でも、空を飛ぶ飛行機の一部になると思うと作業は真剣だった。

 ある昼休みのこと、私達は出征される先生をお送りするために工場の広場に集まっていた。そのとき、折悪しく警報のサイレンが鳴った。回りにいた他校の生徒や工員の人達は、すぐ防空壕などに避難したが、私達はそのまま整列して先生のお話しを聞いていた。と頭上に敵機らしいものが一機見え、遙か高空で爆弾を落とした。「真上で落としたのだから、あの爆弾はもっと先の方に落ちる。大丈夫。」とは思ったが、とにかく先生の指図があるまでと、上目使いに敵機の行方を追いながら、誰も動かなかった。「如何にも武蔵の生徒らしい」といわれたように覚えている。

 当時私は中野から立川を経て、昭和まで通っていたが、青梅線の混み方は、丁度今の国電のラッシュ時と似ていた。古い小さな電車のドアは太鼓の様にふくらんで、人がこぼれそうになって走っていた。時には空襲の被害で電車が途中から不通になり、爆弾の落ちた大きな穴の跡などが生生しくあるのを見て、我が家の無事を祈りながら、必死に歩いて帰ったこともあった。

 そのうちに空襲は激しくなり、通うのは危険なので、青梅の寮に入り、そこから工場へ通う生活が始まった。

 工場では空襲警報が出ると、急いで走って大分離れた多摩川を渡り、向う岸の土手の林の中に避難するのだったが、一度などは、まだ走っている途中で敵の小型機が来てしまい、列を作って走っている私達に、超低空から機銃掃射をしてきた。幸いに誰にも当たらなかったが、自分のすぐ近くの木の幹に、バシバシッと弾の跳ねる音を聞いた。やっと林の中に隠れて振り返ると、まだ走っている人達を狙った弾が、川面に白い水しぶきを上げていて、戦場のような気がした。

 工場では生産が間に合わず、最後のころは徹夜作業もするようになった。緊張していたためか、さして疲れたとは思わなかったが、そんな夜中にも空襲はあった。電気が消されて真暗な工場の中を、機械につまずかぬように、手をつないで裏山の防空壕まで逃げる。壕の中に渡した板に腰掛けて、息をひそめて空襲解除のサイレンを待っていた。

 工場の裏は広い草原の飛行場があり、ダグラス機が羽を広げていた。「戦争に勝ったら、皆これに乗せてあげます。」と工場の人がいわれたのが耳に残っている。早くその日が来るようにと、夢中で働いた二十八年前の私達であった。

 今そのころの自分と同じ年頃の子を持つ親になって、「戦争は嫌だ。もうあんな体験は子供達にさせたくない。」と強く思う。しかし何もかも不足の時代に、耐え忍ぶことに馴れて来た私達が、その反動のように、文化生活を追い求め、公害、物価高、自然破壊と、又別の住みにくい苦しい日本にしてしまった。小さな自分の安全や、目先の幸福ばかりを考えず、もっと大きな目で、しっかりと長い将来を見透す智恵を、私達も、これからの人も身につけなくてはと思っている。

 

 

 

 

 

遙かな呟き

  (M.S. 三回生)

 

   クレペリン検査

 私の勤労動員の思い出は、工場の広い講堂でクレペリン検査を受けていた時から始る。(勿論当時は適性検査とだけでその何たるかは知らなかったけれども)自分の結果がどう出たのか、とにかく広い工場の一番隅にある小さい艤装工場に配属された。大勢の級友と離れ十六名ほどの編成である。

 

   鋲打ち

 堅いヂュラルミンの板 穴に鋲を合せハンマーで叩く 平らに、同じ長さに、一つのオシャカもなく 振り上げたハンマーが的を外れ空を打つ 鋲を支える左手に痛みが走る 使い古されたハンマーの鉄の裂け目に当りぎざぎざに破れた指、後から後から吹き出る血 今に残る小さい一文字の傷跡

 

   伍長さん

 艤装工場のその中の一つ 私の班の伍長さん 帽子をちょっと横ちょにかぶり 太目のベルトをきゅっと締め 自意識過剰のすまし顔 オシャカを出していいよ大丈夫だよとやさしい てきぱきしてれば気嫌がいい いなせな兄ちゃん 熟練工の伍長さん 歓呼の声に送られて一世一代すまし顔 日の丸と一緒に征って了った そして逢わない私の伍長さん

 

   歌

 戦局酷しく徹夜勤務が始った 夜半過ぎると決って襲う眠気 ハンドルを動かす単調な作業 はっと気が付くと圧力計が上っている 誰がいい出すともなく飲み出したヒロポン あの小さな気味の悪い黄色の錠剤 でも駄目相棒と相談して歌を唄う 知っている限り次から次へと小さな声で そして最後に唄う「待てど暮せど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出さうな

 

   箒

 終戦の詔勅が下りあてのないまま工場にいる 何もわからない何もすることがない そんな二日目 裏の原っぱから背丈の伸びた草を取って来て箒を作る 作業場を掃く そして後は何もすることがない 誰かがぽつんという。

 私達が飛行機作るよ じゃ敗けるわね 今までのあの純粋なものが崩れてゆく つと立って床を掃く 砂粒一つない床を 「そんなに掃いてどうする」 先生のいら立ったお声を背にしながら

 

   遠い時

 異常な経験であったけれども 遠い遙かな時 断片だけが鮮やかに蘇る 小さい小さい特攻機 リベット打ちの轟音 神風の鉢巻……鈴虫を聞き 冷茶をすする 一ときの幸せ 次代に伝えるべくもないこの隔たり。

 

 

 

 

※文中の個人名はイニシャルに変更。その他のテキストはすべて原文のままです。)