増産記録

  (Y.T. 三回生・旧姓I

 

   白い包み

 二十年も前のことである。結婚のための身辺整理にあけ暮れていた時のこと、日記やアルバムと共に白い絹の裏地に包んだものが出てきた。自分でもどこに置いたか忘れかけていたものだった。

 中に二枚の身分証明書があった。一枚は、昭和十九年十月一日交付で、私が「昭和飛行機工業株式会社第六工場学徒報国隊三一三○号」であること、他の一枚は、現住所が西多摩郡青梅町第二寮と変っているので寮に入る時再交付されたと思われるもので、それには「右者昭和十九年七月二十九日ヨリ学徒勤労動員ニ依リ当工場ニ出勤勤務中ナルコトヲ証明ス 昭和二十年四月一日 東京都北多摩群昭和町皇国二七六○工場学徒課長」とあった。これらから動員に出た日、青梅寮に入った日などが正確に思い出されたのである。包みの中にはその他、工場の小さなバッジ、学徒隊の腕章(自作)、左胸につけた勤報三一三○号の直径四・五センチのメタル、診療所の診療券、都立武蔵高女学徒隊に関する報道記事の切り抜き二編、私が書きとめていた第六工場第一職場の増産記録(図解)と、昭和町中神の昭和第二健民修練所で行なわれた第一回女子指導者錬成会日記等があった。

 これらの一つ一つを手に取りながら、当時、必勝を信じて懸命に生き抜いた少女時代を思い、戦後の生活難を経て、新しい人生への出発の時点にある自己を確め、少女時代の一途な思いを忘れないようにそっと元どおりに包み直しておいたものであった。

 戦後二十八年、今回の青梅寮の再会では数々の思い出話しとともに、寮生からの命の次に大切にしていた食券、青梅寮での演芸会のプログラム、「神風」の鉢巻、先生方の出征を記念して書いたサイン帳等が披露されて、私の包みとともに、当時の生活を語る資料として感慨無量であった。

 

   武蔵高女学徒報国隊に関する報道

 誰がいい出して、いつ頃からはじめたのか忘れてしまったが、飛行機が完成して戦場へ向かうたびに、搭乗員の武運長久を祈ってマスコットをプレゼントしていた。私は最初、洋服を着た人形を作ったが「大和撫子」の方がよいというのでいそいで絣の和式上衣とモンペに、「神風」の鉢巻をきりりとしめた人形に作り変えたのを覚えている。真心こめて作った私の分身にほほずりしながら、素晴らしい戦果をあげてくれますようにと祈ったのも今ではなつかしい思い出である。

 当時は女学生でも軍隊式の分列行進をよくやったものである。マスコットの贈呈式は、その分列行進をした広い飛行場の一隅で行われた。はじめは零式輸送機(DC13型)の搭乗員に対してであった。飛行機を背にして立った紅顔の青年の敬礼が今でも印象的で忘れられない。

 今、私の手元にあの頃の新聞の切り抜き二編が残されている。昭和二十年の新春の頃の武蔵高女学徒隊の様子が写真入りで報道されたのである。それには当時の戦局と銃後の女学生の決意が記されており、二編共その写真には友人や私の若い横顔が並んでいる。文中の○○高女とは武蔵高女のことであり、記者が「某基地にて」と書いているのは私達の工場であり、それによってすでに戦地も内地も共に最前線にあることを認識し、緊張したものであった。

 

 

  

   増産記録

 古ぼけたノート数片に、二十年二月三日から二十三日までの増産記録があった。これは図解してあったので、あの頃の具体的な作業を思い出すのに好都合である。第六工場第一職場の班員十四名が毎日特急工事に追われて、能率をあげることに苦心していた様子がわかる。

 

 二月五日 十二名

中央翼前縁小骨 33ケ固定機銃取付材(九九艦爆)26

 けがき一名 はさみ三名 やすり五名

肋材円框空廠工事)10ケ 2730秒……

 二月十日 十三名

DC13輸送機左側暖気開放管覆鈑 55ケ 補強 2

特急工事 35ケ 補助タンク 30ケ(メンとりやすり)

 二月十二日 十二名

たてびれ小骨 小26ケ大32ケ 方向舵 83ケ 自動操縦

装置管理器下部支持金 130ケ 円框(特急工事)12

中央翼ナセル外側補強桁部補強材 84ケ 操縦席床鈑支持 15

胴体下部補強材 42ケ…(中略)…新記録 731

 

 この記録から増産即ち必勝を心から信じてただひたすらに精を出していた私達の姿が浮かんでくる。零式輸送機の胴体の円框は、背丈ほどあって扱いにくかった。しかし、いつのまにか小さくなって私の胸の中に楽に入るようになったとき、それは九九艦上爆撃機紫電改の部品であることを知った。

 

 

 

 

設計課

  (S.K. 三回生・旧姓O

 

   トレースの練習

 !!そなれの松の 梢にすめる

 十六夜月の 鏡の面に…!!

 二部合唱が工場の屋根にこだまする。昼休みのひととき、防空壕の上に丸く輪になって、今までに習った歌をつぎつぎに思いきりうたう。一日のうちで生徒に帰るひとときであった。

 八月も半ば、厚い木綿の「ナッパ服」に汗がじっとりにじむ日、十人の友と設計課へ配属になった。スレート瓦で作ったバラック建ての部屋、中へ入ると真夏の熱気でむっとする。大きな図板のついた机が十個並んでいた。私達の仕事はトレース(写図)。前方には先輩諸嬢が二十人ばかり並んでいる。翌日から講習に入った。係長のO氏が製図の基本、N技師が機械関係の講義、いろいろの方が入れ替わり立ち替わり…。およそ機械等には縁がなかった上に、出てくることは始めてのことばかり。

 まず線の引き方である。始めから終りまで同じ力で同じ太さ、細いのから太いのまで何十本もの宿題を出されて、夜おそくまでかかって仕上げ、「我ながらうまくなったもの」と得意になって翌日みていただくと、

「これで焼いても青写真には出ませんよ」一同ギャフン。文字も又製図用の形で特殊なもの、これまた並大抵ではなかった。なぜ私が設計課になんて配属になったのだろう。字はへただし… 先生間違ったのではないかしら… いや弱音をはいてはいけない、学徒はやっぱりだめだなんていわれては学徒の名折れ、先輩諸嬢にもくやしいし(ちょっとライバル意識を出して)皆で「がん張りましょう」と一同奮起、もりもり書きまくった。

 何カ月が経ち本物の図面が渡されるようになる。緊張すればするほど、せっかく引いた烏口のすみをこすってしまったり、やっと出来上がったと思ったとたんに線を長く引きすぎ、消しゴムで消したら紙が破れてしまった。

 「あーあ、またおシャカ

くやしいやらなさけないやら、思わずもんでくず箱へポン。となりの○○さんもやってるやってる…。

 でもそのうちにおシャカも少なくなり、図面の片隅の写図者の欄に、自分の名を入れられるようになった。青写真に焼いてどこの職場へ行くのだろう… あの大きな飛行機の、小さな小さなほんの一部分の鋲打ちの図面でも、自分の手がお役に立つのだという満足感とともに責任感が湧いてきた。

 

   空襲…避難…

 年が明けて空襲がはげしくなり、工場もねらわれた。急ぎの仕事をしていてもそのまま遠くはなれた山のほら穴に避難しなければならなくなった。一時間も二時間も……。

 そんなある日、図面を持ってきたT氏が、

「貴女達は今一番勉強しなければならないときなのに、こんな工場生活で本当にかわいそうですネ、こんなものを書いてきました。ひまがあったらみて下さい。」

レポート用紙に十枚近く、ギリシャ文字のαβ等、物理、数学、そして天文学まで、ちょっと私達には高級だったけれどぎっしりと書いてあった。一日の仕事で疲れているところを、私達のためにこんなにまでして下さるとは…と、一同すっかり感激、その後も文学全集を持ってきては読んで下さいと置いて行く。それまであまり本に親しまなかった私が、少しずつ本の面白さを知るようになったのもこのころ。でも日増しに空襲がはげしくなり、連日連夜のB29で読書どころではなくなってしまったのだ。

 ある日の午後、空襲警報が解除になり部屋にもどると、被害のため中央線が思うように通らないので学徒は早めに帰るようにとの指示。急ぎ支度をして集会場所へ。私の家はやられたかしら…何か胸さわぎがした。友と立川で別れたった一人になる。(遠方の人は寮へ入るよう再三すすめられたがそのまま高円寺からずっと通っていた)。

 国立駅へ入るころまた空襲警報、ドアが開かれ乗客全員ホーム前の林の中へ逃げた。囲りをみても誰一人知る人もなく本当に心細かった。皆それぞれ大きな木の根もとにうずくまる。折から「パン、パーン、パッ」 ものすごい音が真上で聞こえる。機銃掃射の音か…まるで自分がねらわれているようで思わず小さく土の上に伏した。そして「お父さーん、お母さーん」。心の中で叫ぶ。あとは無我夢中。どのくらいたったろう、音は止んだ。恐る恐るあたりを見まわすとけがをした人もいないらしい。「ああ 今日もどうやら助かった」。ほっとして電車にもどった。

 のろのろ運転でやっと高円寺についたと思った時あたりが煙で一ぱいである。おやと思ったら駅前から南へ二百米位何もない、ない、やられた! あそこの店も、ここの家も、柱一本残っていない。残り火がプスプス煙をふいている。改札口に立った私はへなへなと体がくずれるのをやっと支え、南口大通りを急ぐ。母や幼い弟妹は疎開しているので心配ないが、どうぞ家が無事でありますように、祈る思いで夢中で走る。「あった! 無事だった 残っている。」父はまだ帰っていない。家具も疎開させガランとした部屋へ一人ぽつんと座ってしばらくはボーッとしていた。今日は残ったが、この次は、いや今夜は焼かれるかもしれない。十何年も住みなれた家 お別れかと思うと いろいろの思い出が頭の中をかけめぐった。

 

   電休日

 そんな毎日のくり返しに、ただ一つのたのしい日 それは電休日といって月二回の休みの日であった。前日に工場から直接母の疎開している多摩の家へ行くのだった。立川から南武線に乗りかえ、また京王線に乗り次いで聖蹟桜が丘で下りる。それから四十分近く(今の多摩ニュータウンのところ)細い山道を一人で歩いて行く。田んぼには稲が青々と波を打ち、草とりだろうか、女の人の動く姿がみえる。ガッタンガッタン水車の音が遠くに、ケロケロと鳴く蛙の声が何かさびしげだった。途中では人っ子ひとり逢わない。ワラぶき屋根からゆうげの仕度の煙がゆらゆらと山の中腹にただよい、折から沈む夕日に空の紅がとても美しかった。

 やっと家の屋根がみえてきた。何日ぶりに母や弟妹に逢えると思ったとたん、涙が出てきた。

 「馬鹿ネ、うれしいのに」

自分にいってみてもあとからあとから… どうしたのだろう。入口近くに三才の妹が迎えに出ていた。

「おねえちゃーん、まってたのよ」

かけ寄ってくる。近所の仲よしの友と別れてさびしい田舎へきて、毎日帰りたいといっては母をこまらせていたとか…あわてて涙をふいて、

 「おりこうしてた?」

抱き上げて家へ入った。妹は母をよびに行った。だれもいない部屋の窓に腰掛けて、夕日のすっかり落ちた山の端を眺めながら、流れる涙をどうすることも出来なかった。

 工場生活と連日の空襲、ぎりぎりまでにはりつめた毎日、母のふところに甘えられる心のゆるみと、そして安らぎだったのだろう。

 どろだらけの手に、取ったばかりの野菜を下げて母が帰ってきた。一度も畑仕事などしたこともなかったのに、二才の弟を背に一日中野良仕事、

「つかれたでしょう」

「なれないから腰が痛くなるのよ、でも男の人が戦場へ行って誰もいないし、疎開者でも誰でも皆でやらなくてはネ これもお国のためよ。あなたも疲れたでしょ 今夜は特別おにぎりにするワネ」

 心づくしの白いお米のおにぎり、新鮮な野菜のたっぷり入った味噌汁の大ご馳走、何日ぶりかで舌づつみを打ち その夜は又何日ぶりにぐっすりねることが出来た。翌朝また来る日をかぞえて母や弟妹に送られ、ふり返りながら山を下りた。そして間もなく終戦……。
 

 長い長い一年であった。あんなこと、こんなこと、やさしかったN技師とT氏。何かとトラブルを起こした先輩諸嬢、そして十人の友、今ごろどうしていられることだろう…。

 自分の子がちょうどその年齢になった今、何かと思い出される今日このごろである。母となった今、子供にはあの思いはさせたくないと思う。戦争だけはしてはならない。失うものばかり多く、何も残らないもの…。

 学生生活から工場という社会へ突然ほうり出され 異なった経験を通して得たものも多かったが、やはり大きな大きな「ぎせい」ではなかったかと今つくづく思うのである。

 

 

 

 

 

※文中の個人名はイニシャルに変更。その他のテキストはすべて原文のままです。)