負傷

  (M.O. 三回生・旧姓T)

 

   負傷

 かつて私達が動員に駆り出された年齢に末っ子が達しました。

 中学三年生。学校から帰って冷蔵庫をあければ、おやつの果物や飲物が冷えていて、受験生だから栄養をつけねばと親が気をつかい、学校では先生が適切な自習テキストを用意してくださって、あとは自分自身のする気が出るのを待つだけ……。

 そこに日の丸鉢巻に菜っ葉服、すき腹を抱え、満員電車にもまれて工場通いの 私達の少女時代を重ねてみました。戦争は必ず勝つと聞かせられていましたので、私達は雑炊食に耐えながら 工場でハンマーを握り、昼休みには

「白いおにぎりをお腹一ぱい食べてみたい。」

「私はお汁粉を丼でたっぷり食べたいなア。」

等、もっぱら食い気のお話で、それでも何人か集まるとコーラスが始まったりして、結構朗らかでした。周囲の殆んどが、同じ苦労をしていましたし、戦争の終わった暁には、素晴らしい未来が約束されていたのですから。

 そのときに、私は指先をケガしました。武蔵では、負傷第一号だったのです。当日は黒い機械の林立する昭和飛行機第六工場で、プレス機を受持たされ、神風特攻機の頭部に使うジュラルミン板をプレスする仕事をしていました。どうしたはずみか、板にのせた指をはずさぬまま、ペタルを踏んでしまったのです。ガン!!という衝撃が走り、白く血の気を失った指先を見て、大声で友達を呼んだような気がします。余りの痛さに、幾晩か泣いて過しました。何べんか手術もし直しました。名誉の負傷というので、先生や工場の方、多くの友人が見舞ってくださいましたが、内心とても心苦しく思っていました。何故なら、毎朝

「ケガをしないように気をつけて、あなたはとてもそそっかしいから。」

という母の声を背に出かけていたのですから。確かに栄養も足りず、疲れていたでしょうが、性格の欠点が招いたものとして、指先のケガは、其の後の人生の戒めになっています。

 

   空襲

 ケガがやっと癒った頃から、東京の上空にB29が姿を顕わすようになりました。鳶に迫る小鳥のように、わが戦闘機がB29に体当たりし、黒いかたまりになって落ちて行くのを、工場の窓辺で胸迫る思いで見たこともあります。

 不意の機銃掃射で、防空壕にとび込むのが間に合わず、殉職した工員や学徒が出るようになって、警戒警報が発令されると、女子学徒はトラックの荷台に分乗させられて、多摩丘陵に避難するようになりました。

 昭和二十年に入り、横浜空襲のときは、尾根沿いの雑木林で、南の上空をあとからあとから不気味なうなりを響かせて行くB29の編隊を眺めていましたが、時たま高射砲の白いさく烈が見えるだけで、あの勇ましい戦闘機はもう姿を見せませんでした。時として不安がよぎるものの、目隠しされていた少女の頭で それでも未だ勝つものと思っていましたし、終戦の詔勅を聞いても「そんなのは嘘だ。」と私は一人怒っていました。ある目標のために 多くの犠牲を払って努力してきたことが、全然無意味になってしまうのですから。

 

   傷あと

 私にとって……というより私達の年代にとって、敗戦の傷あとはもっとあとに来たのではないでしょうか。終戦後一年余、緑溢れるむさし野で、失った時間を取戻すように学校生活をエンジョイし卒業しましたが、進学についても、生活面についても、私には希望が一ぱいあったのに、厳しい筍生活で、断念しなければならないことばかりでした。戦争中とは異った意味で“じっとがまんの子であった”時代です、未だ考えの固まらない年で動員に出かけ、皆が食べることでせい一ぱいの終戦後に卒業し、気づいてみれば学力は大変に低く、十年間かかって受けて来た教育では全然通用しない世の中が目の前にある。もうちょっと大人であったか子供であればよかったのにと悔んでも仕方ないことです。

 今は、内にはいろいろの問題を含んでいるとはいえ、平和な時代がつづいています。戦争によるさまざまな経験を大切にして、子供達には、希望する生き方があるならば、たった一度の人生を 悔いなく歩ませてやりたいと願っています。

 

 

 

 

二十八年目に想うこと

  (M.O. 三回生・旧姓N)

 

   無条件降伏の日

  二十八年前の八月十五日、極度の栄養障害と過労に倒れ病床にあった私は、自宅で無条件降伏を知り、ラジオにしがみついておさなごのように大声をあげて泣き続けた。くやしかった。あの戦争がどのような目的をもつかの疑念など、全く抱くことを知らぬ純情そのものの典型的軍国少女だった私には、ただただこの戦争が聖戦としか考えられず、必勝を信じて必死だったのである。そして、戦争の終結は、勝利を得ることか、一億玉砕することかのいずれかひとつと、固く信じていたのである。漸く涙がおさまり、泣きじゃくりながら何気なく見上げた空が目にしみるように青く澄み、その空に悠然と旋回飛行していた米機のけたたましい爆音は、今もなお耳に焼き付いて離れない。

 

   欲しがりません、勝つまでは

 その日より三年余り前、府立十三高女(後の武蔵高女)の入試を中野の校舎で受けた。口答試問の際、ある試験官に問われた。

「最近、街で見たり聞いたりする標語を言ってごらんなさい。」

「“欲しがりません勝つまでは”“進め一億火の玉で”“勝って兜の緒を締めよ”。」

かちかちに緊張しながらも、胸を張って得々と答えたものである。(この時の試験官が後日、青梅の寮でお世話になったS先生であった。)

  考えてみると、私どもの武蔵高女での四年の歳月は、あの悲惨な戦争のさなかに始まり、そして終わったといえよう。受験当時こそ戦局は優勢で、シンガポール陥落の喜びに有頂天になっていたのであるが、入学早々四月半ばにはB29の初の空襲を受け、それ以来戦局は日毎に悪化し、内外ともに惨禍は著しかった。ガダルカナル転進、アッツ島玉砕、サイパン島、グァム島、レイテ島上陸、そして硫黄島の日本軍全滅……。このころから、東京での空襲も実に惨憺たるものになった。二十年八月に広島・長崎に原爆投下。そして十五日。敗れたのである。私どもが武蔵を巣立つ半年程前のことである。その間、心身共に大切な成長盛りにありながら、現代の子供達が体験する臨海・林間・修学旅行・クラブ活動・合宿・文化祭・体育祭など一切経験することなく、徒歩帰宅訓練・農耕(下肥運びに至るまで)・防空壕堀り・待避訓練・勤労作業がこれに代わった。そして、三年生の七月、遂に学徒動員命令が下ったのである。

 

   学徒勤労報国隊

 当時こんな愛唱歌があった。

 “花も蕾の若桜 五尺の命ひっさげて

  国の大事に殉ずるは われら学徒の面目ぞ

  ああ 紅の血は燃ゆる”

この精神に全く共感していた私は、いつ、どこで両親と死別してもと、両親の毛髪を入れたお守り袋を肌身離さず、男性用の作業服を身にまとい、神風の鉢巻をきりりとしめ、一機でも多くの飛行機を第一線へ送らねばと、昭和飛行機第六工場絞り班の一員となったのである。見るもの聞くもの触れるもの、すべてがはじめてであった。一枚の大きなジュラルミン板をおがくずで磨き、鉄板で造られた型をのせて罫がき、握っただけで豆ができてそうな重い鋏でこれを切る。周囲がやすりで磨かれ、ドリルで要所要所に穴があけられる。その穴をダイスの凸点にはめて二〇〇〇トンプレスで押す。この恐ろしい程巨大なプレスでは、人間でさえもせんべい状になると早々に聞かされた。この機械から出て来た品は、平面から立体に変っている。すべてが流れ作業で、伍長さんと呼ばれる工員さんの指導により行なわれるのである。次にわが絞り班に廻ってくるわけである。部品をもう一度ダイスにはめ添木をあてて万力にはさみ、丸くカーブした部分のしわを木ハンマーでたたきながら絞ったり伸ばしたりの技術的に難しい作業で、度々オシャカを作った。次の工程では更にもう一度周囲の高さが整えられ、歪をとってやき入れに廻される。出来上がった製品は胴体・翼等の骨組みとなる部品で、初めはダグラスのものであったが、戦局の悪化と共にその寸法は極度に小さくなり、体当たり用の特攻機であることに感付いていた。

 冬の寒い朝のつらさはひとしおだった。天井の高い茫々たる工場内で触れる物はすべて金属であり、紙を火種として乏しい薪に火がつくまでの間、木製の机に手を触れてわずかに暖をとったことが想い出される。

 

   徹夜作業

  日毎に激しくなる空襲下日中の待避時間が長くなるにつれ、生産量はがたおちした。一機生産することが勝敗を左右するものと信じていた私達は、自分たちから望んで徹夜作業をしたものである。深夜十二時になると、夜食を食べに行く。それは醤油入りの糊としか例えようのない異様な臭気を放ったもので、ベチャッと金属製の食器に容れられてあった。当節では野良猫でさえも顔もそむけることであろう。しかし、空腹には耐えられず、仕方なく食べた。その後、工場の各所から響いてくる鋲打ちのあのすさまじい音や皎々と漏れてくる灯りに勇気づけられ、朝迄作業に没頭するのだった。

 

   特攻機にマスコットを捧げる

  今、表紙のボロボロになったアルバムを手にして、思い出のページをめくる。“特攻機に捧げたベビー人形”と添え書きした薄ぼけた一葉の写真が見つかった。 どのように分担し合作したものか思い出せないが、不思議なことに、人形に着せた薄桃色の絹の感触はこの指先に残っているのである。作られたマスコットには、戦時色豊かに紺絣のモンペ姿のものもあり、さまざまだった。ある日、これらを飛行場で出撃前の特攻隊員に手渡した。風になびく白いマフラーと、紫の布に包まれた軍刀…。あの光景は生涯脳裏から離れることはないであろう。

 又、血書をしたことも、おぼろげに思い出される。日の丸を染めたのか必勝と書いたのか定かではない。特攻隊員に、銃後の乙女の真心を捧げねばという殊勝な気持ちと、小指の先を刃物で切らねばならないという恐怖と、女々しくあってはならぬという悲壮感が入りまじった。小指の先を少しくらい切ってみても血は出なかった。もう少し深く切ってみる。まだ出ない。「もう少し、もう少し…。」漸く血を見た時痛さを忘れ、夢中でしぼり出したのだった。軍国の大和撫子もやはりいたいけな少女にすぎなかった。

 

   いま、思うこと

  いじらしくも愛国精神にもえていたあの当時は、こうした毎日に充実感を持ち、体力的には苦痛であっても、精神的な苦痛はありえなかった。しかし、戦争という興奮状態から覚めたとき、フッと考えさせられることがある。若しあのとき、一機でも少なく生産していたなら、それだけ尊い生命を散らさずにすんだであろうに…と。二十三、四才の彼等は、私共と異なり、戦争に対して疑惑を持ちながらも、光栄と思い込まされて、自ら命を絶ったのではなかろうか。もし生存していられたなら、今頃は社会的な貢献も多かろうし、家族と夕餉の膳を囲んで団欒の一時を持つこともできたであろうに…。

 しかし、私ども自身もまた被害者であったのだ。今の子供達が勉強にも運動にも存分に励み、自由に考え、批判し、行動し、楽しく学生生活を送っている姿をみるとき、還らぬあの頃の歳月に、無性に未練が湧いてくるのである。戦争は全くの悲劇である。

  こうして当時を語っても、若い人々には、理解しがたく、滑稽にさえ思われるであろう。しかし、滑稽と思われている事態でもそれが再び来ないとは、誰が断言できようか。国民一人一人が責任をもって、悲惨な戦争をくり返さぬために最善をつくさねばならない。そしてそのために戦争の悲惨さをうったえるのは他ならぬ我々戦争体験者の使命ではなかろうか。

 六月二十四日の青梅の寮での再会は、感無量だった。長年の念願が果たされ本当にうれしく思っている。

 

 

 

※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)