小作寮・勤労課

 給食課のことなど

  (Y.K. 三回生・旧姓Y

 

   小作寮

 小作の寮の思い出は本当に断片的なものしかない。

 農家の蚕室を改造したとかいう話だったが同じ大きさの部屋がただ一列に並んでいる、バランとした感じだががっしりした木造二階建てが目に浮かぶ。玄関らしきものはなかったのではないか。大部分の寮生は近くの疎開工場で働き、私達数人が毎朝早く寮を出て本社へ通った。O先生とご一緒したと思う。薄暗くなりかけて帰ると私服に着かえた小さい人達(と、私はみえた)が何人か二階のてすりからおかえりなさあいと云ってくれた。夕食は寮でとったと思うがこれが本社からの輸送によったのものか、寮生の当番の調理によったものか全く記憶がない。少くとも私は寮で炊事をした覚えはないが大家さんの農家の方の世話になったとも思えない。

 寮での印象は下級生がよく泣いていたということ。言葉になる前にすべてが涙になるふうだった。

 今度の集まりの席上、皆さんのお話をきいていて「工場での労働」について私は少し変わった経験をしたのではないかと思った。母の病気のため一足おくれて入社、私も丈夫ではないからとの先生のご配慮を頂いて勤労課に配置された。職種は記録工、第○工員係、学徒は私だけだった。その後、転じた給食係でも学徒はひとりだった。
 

   勤労課でのこと

 女子挺身隊の人々、各地から動員されて来ていた人達には組織の庇護というものが何もなく、心細げにみえた。学徒については勤労課課員が「先生がやかましい」と言っていたのをきいたことがある。殊に武蔵の場合は、いかなることがあっても暴力はふるわぬ、健康を守るということになっていてやりにくいよしきかされた。

 福岡の住人となって当地の事情をいろいろきいてみると、いかにも無謀な時代であったとはいえ、たとえば校長が軍国主義の信奉者であるか、止むを得ず動員に応ずるということであるかによって教え子の運命は変わると思われる。今、教養ある方は非力な個人の持つ力を信じて大事にして頂きたいと思う。

 勤労課風景の中に午前中何人かの人が呼び出されてなぐられるというのがあった。祖国の非常時に怠けた人かと最初は思っていたが理由がわかるにつれ、腹がたって来た。いわく「食券を失くした」。いわく「ひとの食券を借りて食べた、貸した」。いわく「言葉が悪い」等々。若い人もいた。商店主といったタイプの年配の人も、朝鮮の人もいた。言訳は更に怒りを買い、また沈黙も横着となるらしかった。

 

   給食係でのこと

 ここでの思い出は集りの席上Uさんからみせて頂いた食券(この紙片がどれほどの悲喜劇を生んだことか)を手にして、次々に甦って来たものである。

 厨房には古来「その中で食べる分は存分に、但し持ち出しはまかりならぬ」といった習慣があるらしい。だが、これがヒモじいヒモじいおもいをしている人達のただ中で行なわれていたのである。二抱えほどもある大きなカマがずらりと並ぶ現場、その中に一つ特別なカマがある。厨房の事務室の最年少の私の役目でカマのふたを両手でギイと持ち上げると、真白なオコメのご飯がある。まぶしい純綿の御飯をおひつに移して持って来る。おかずは特別なものではなかったがやはり食べ放題だった。ただ副食の印象がうすいのは食欲をそそるようなものはありようがなかったからではないかと思う。何日めかに私は学徒課に呼ばれた。「学徒である以上一般の学徒と共に食堂で食事すべきこと、白米は栄養価に乏しく、弱い者には不適当であること」の二点であった。まぶしい白米には困惑させられていた私が事務室に帰ってその旨を言うと主任はニヤリとして「先生、ヤイてンだヨ」と言う。なんて嫌なことを言う人だと思ったが、それをびしっと否定出来ない何かが心の隅にひっかかっていて悲しかった。

 食券によって欠食分を集計し、倉出しして来て各自に分配するのが私の仕事だった。不在寮生の分が行方不明になってしまったり、布袋の小さな破れに気付かずに米を入れ、そこからいくらかがこぼれたと泣かれたり、いろいろなことがあった。寮生の欠食分は米だけでなく醤油等も返して欲しいと先生から申入れがあり、上司と相談していくらかを渡したが末端まで行き着かなかった話、学徒課配属のIさんが困り切った様子で一升ビンを持ってきて事務室の私を訪ねてみえたりもした。すべては昔日の悪夢である。

 食券をなくした人には何人かに作ってあげたことがあった。再発行しないことになっていたので偽造にちがいなかったが給食係にいて別棟の「特食」のにおいを嗅ぐに及んで、私にはもうそうしたことへの罪悪感はなくなっていた。
 

   別棟の特食調理場

 そこは一般の厨房員は一切オフリミットの城だった。たまたまみかけた秤にのせられたグラニュー糖の白さが印象に残っている。焼肉のにおい、油のにおい、卵のにおい、あらゆるいいにおいが広がってくる。時には現物が運ばれてるのを目にすることもあった。行く先は本館の監督将校他ときいたが本当のことはわからない。ただ食糧も乏しい中で戦い、南海で戦死した父の像と、勤労課で一片の食券のために叩かれていた人の顔とが重なって「ああ、これじゃダメだ」と思った。どこに訴えるべきか考えたりもした。

 だが、時にはいいこともあった。牛乳が集配用のアルミの大きな罐に入って届いた。学徒用ということだがいくら大きくともたった一本ではどうわけようもない。私のいる寮なら手頃な頭数だというので廻してもらったことがあってうれしかった。

 たき出しのおむすびを午前中立ち通しで作り、脚から肩まであちこちこわばり、掌は火傷のようになってしまっておむすびのきびしいのにびっくりしたこと 誰かが今日のライスカレーにはかたつむりが入っていると言い出して水洗いしてよくみたら「たにし」か何かそういった貝だったとか、面白い話もある。

 だが、給食係にも私はどのくらいいただろう?終戦は海仁会病院、今の国立第二病院のベッドで迎えている。終戦後、武蔵の生徒が工場から引きあげたのはいつごろだったのだろう。残務整理に出かけたときだったか青酸カリを給食係の事務室でみせられている。アメリカが上陸して来たときのためにあなた達にもわけてあげてもいいと言う。純度の悪いものだったのか、灰色で青味を帯びた粒子が混ざっていた。私は父の子として祖国に殉ずるつもりだったし、敗けて生きているのも不思議な気がしてボーッとしていたがそれを貰う気にはならなかった。

 とにかく生きてー、私は今、「国家」という名のカイジュウのことを考えている。

 

 

 

 

 

工場の生活

  (M.N. 三回生)
 

 今から二十八年前、いや二十九年になりますか、戦後の生活難に追われて、落着いたと思ったときには、もはやあの当時のことは半ば忘れ去ろうとして居ります。しいて思い起こしてみれば……。

 あのときは、私は動員の直前に口内炎を患らい四キロもやせたので、軽作業とのことで倉庫係に、二、三の方と配属されました。E.G.さんも一緒だったと思います。暗い部屋の中に棚がたくさんあり、さまざまのボルトやナットがありました。工員さんが、伝票を持ってこれらの品を取りに来るのに渡すわけで、作業は簡単で楽でしたが、職場の空気が乱れて居り、少女の潔癖さから堪えられず、先生方にお願いして職場を変えて頂きました。

 新しい職場は二〇〇〇トンプレスのある所で、ここには仲間が多勢いらしたので楽しく過ごしました。ここではいろいろな形に打抜いたジュラルミンの板を折り曲げて成型する作業で、木型に当てて木製のハンマーで打つわけですが、直線に曲げるものは良いのですが、曲線のものは端が裂けて「オシャカ」になり困りました。二〇〇〇トンプレスは鈑金の大型のものをプレスして成型していました。これは上級生の方が扱っていました。Mさん?が、終り頃あごの辺りを作業中怪我されたと記憶して居ります。

 常に空腹であり、徹夜作業等もあり、今考えれば良く堪えたものと思いますが、やはり年若く順応性があったのでしょう。「江田島」などの戦争ものを競って読む一方では、「レベッカ」「風と共に去りぬ」などを夢中になって回し読みしたものでした。

 

 電気炉の上に並べる水桶に湯気たつさまの日に透きてみゆ

 徹夜せし目に快よし風なきに山桜散るみ社の庭

 

 

 

 

 

※文中の個人名はイニシャルに変更。その他のテキストはすべて原文のままです。)