第六工場のこと

  C.K. 三回生・旧姓K

 

   青梅線の車中で

 二十八年目の同窓会、しかも思い出多い青梅の寮。昔から社交性に乏しかった私を、覚えて居て呉れる人がいるかしら。私と同室だったKさんは、Yさんは、Sさんは、出席なさるのかしら・・・。会は日曜日だけど、結婚して以来、主人や子供を置いて 家を空けたことの無かった 私にとって、たった一日だけど 留守にするのは大変決心のいることでした。種々考えた末、やっぱり出席することにしました。

 立川の駅で青梅線に乗り替え、入口に立って見覚えのある顔は無いかと キョロキョロしていたら、懐かしい顔が急に目の前に現れたので、思わず声を掛けてしまいました。「あの・・・、Uさんではございませんか?Kです。」

 暫らく無言で見つめていらっしゃる。(覚えていらっしゃらないのかしら・・・。私はよほど変わってしまったのかな)ちょっぴり がっかりしていたら、にっこり笑って「お久しぶりね!髪の形が違うので感じが変わってしまったけれど、覚えているわ。」「良かった、思い出して下さって、ほっとしたわ・・・。」

  学生のころも おっとりとして優しい顔立の方でしたが、今も少しも変わらず、若々しく、美しく見えました。

 この青梅線は、戦時中 何時も超満員で、窓ガラスなど一枚残らず破れ、破壊寸前のおんぼろな木造車輌でしたけれど、今は立派な電車になっていました。

  工場がどう変わっているか 一目見たいと一生懸命、窓の外に目をこらしていたら、昭和飛行機工場が昔の儘の姿で立っていたのにはびっくりしました。今は自動車の部品や、オートバイを作っているのだそうですが、建物は まったく昔の儘でした。

 カーキ色の国民服、縁無しのへんな帽子に神風の鉢巻。

  戦争のはげしかった あのころ、日本を信じ正義の戦と信じ、純粋に、ひたむきに、ただただ勝利を念じつつ毎日通ったあの頃を、複雑な気持で思い出しました。

 

   第六工場で

 私の配属されたのは、第六工場でした。門の前にある広場で、毎朝先生のお話を聞いてから 班別に各職場へ行くのですが、広い道の左側には事務所、食堂、工場が、右側には診療所、講堂、倉庫、工場と並んで居たように思います。第六工場の手前にある倉庫では、韓国の方々が働いていましたので、その前を通るとき、いつもにんにくの臭いがしていたのを思い出します。

  第六工場の入口をはいると、右側に小型プレスが並び、其の奥に二千屯プレスが、でんと据えてありました。左側が私達の作業場で、粗末な荒木の作業台がいくつか並び、裏への出口近くに、ヂュラルミンを洗う場所があって、ぼろで作った大きなミトンを手にはめ、鋸屑で、油を洗い落とす作業を、よくやりました。なにしろ、その板は大きいし、重いので、運ぶのにも裏返すのにも、大変苦労しました。その上、ヂュラルミン板の切り口は鋭くて、ぼろ手袋の破れ目から手を切る事もしばしばで、そそっかしい私など、いつも傷だらけな手をしていました。

 私達の仕事は、主に翼の部品を作る作業で、プレスに掛ける前の板の余分な箇所を裁ち落したり、プレスして角になる部分にドリルで穴を開け、プレスしたときに横割れしないように穴の周囲を棒鑢で角取りをし、二千屯プレスに廻します。プレスし終わった部品はまた私達の所へ戻り、スケールで正しい寸法をはかり直して、鋏で切り直します。それから面取りをし、平鑢を掛け、次の工程へ廻すのですが、これがとても大変な仕事で、鋏で切ると言っても、紙を切るようなわけにはいきません。薄い板は鋏の刀の間にはさまり易く、うっかりすると端がまくれ上ってしまうので、細心の注意が必要ですし、厚い板は硬くて大変です。カーブの所は特に悩みの種でした。長時間鋏を使っていると、親指の付根が真赤になり、腫れ上って、とてもつらかったのを覚えています。

 長身でやせた、目の大きなHさんという職場長さん、今はどうして居られるのでしょう。無口な方でしたが、何時も丁寧にわかり易く仕事を教えて下さいました。

 私達の作業場の奥には組立の作業場がありました。そこは私達の所と違い、とても広々とした感じで、いつもドリルや鋲を打つ機械の音だけがガランとした工場の中に響いていました。ときどきお昼休みに行って見ては、あまり沢山は出来上がっていないように見えるので、お友達と心配し合ったものです。けっきょくその心配が、現実となってしまったわけですけれど、あの当時は勿論そんなに早く日本が負けるとは思いもよらず、だんだんはげしくなる空襲の情報を聞くにつけ、今はみんなが頑張らなくてはならない時なのだと、ただ夢中で働きました。

 

   複雑な思い

 後に、あの戦争がどんなに馬鹿げたものであったかを知るようになって、どこへぶつけようもない腹立たしい思いをしたのは、おそらく私だけではなかったと思います。あの戦争を体験したほとんどの人達が、大なり小なり同じ思いを噛みしめたことでしょう。

 ふれたくない過去として、人にも話さず、自分でも思い出さないようにして来たことを、今こうして、一つ一つ思い出しながらペンを取る気持ちになったのは、先日の青梅寮での同窓会に出席し、今までの考えは少し違っていたと思うようになったからです。

 爆撃のため真赤に焼ける東京の空を、寮の窓から唇をかみしめながら眺めたこと、寮や工場の食事がひどかった話、虱や蚤がひどくて眠れなかった話、工場の仕事が厳しかったことなど、みんな思い出したくない嫌な思い出ばかりのはずなのに、お友達の話の一つ一つが不思議な懐かしさで私の心によみがえって来ました。

 私達の学生時代は、学問を学ぶための学校ではなく、武器増産のため一つの集団としての労働力としてかり出されていたわけで、個人の自由はもちろん、自由が欲しいなどと考えること自体非国民だったのです。

 でも、日ごとに悪化する戦況の下、空襲もはげしさを加え、明日の命はおろか、一寸先の命も判らない状態の中で、私達と、私達を取りまく周囲の人達すべてが、聖戦を信じ、日本の勝利を信じて、互に助け合い励まし合って力一ぱい毎日を生きたと云うこと、これはある意味では願ってもかなえられない貴重な体験だったと思うのです。けれどまた今の平和な幸を思うとき、未だ稚い二人の息子を見るにつけ、この子たちには絶対に体験させたくないし、二度とあのような時代があってはならないと思うのです。

 

 

 

 

 

鈑金作業

  (C.A. 三回生・旧姓A

 

 私の幼年期は戦争と共に幕を明けた。小学校二年の時、即ち昭和十二年七月支那事変勃発、小学校六年の時、大東亜戦争が始まった。戦局が有利に展開している間は戦争を身近なものとして感じる事も少なく、祖母と医者だった父、それに母、兄弟四人の七人家族の生活は平穏無事に続いて行くかにみえた。男三人の中に女一人の兄妹として育った私は少々男性的で少女小説などに読み耽った記憶などあまりなく、「空の英雄南郷少佐」「加藤隼戦闘隊長」「西住戦車隊長」など専ら子供向け戦記物を多読したように覚えている。従って遊ぶことも男性的で女同志で遊んだことよりも兄弟の友達と大勢で「開戦ごっこ」などして走り廻ったことの方をよく覚えている。

 

   板金工場

 戦局の左前が生活に酷しく及んできたのは女学校三年の時、昭和十九年夏、私達も遂に学徒動員に駆りたてられた。十四才の時である。配置先は昭和飛行機製作所、第六工場、第二職場という処だった。社名の如く飛行機を作っていた。職場は機体組立工場のすぐ隣りでリベット打ちの音がけたたましく響き渡るやかましい職場だった。仕事は大小様々の飛行機の部品のゲージに合わせてそれをジュラルミンの鈑に書写しこれを切断、ドリルの穴明け、ヤスリかけ、面取りなどして仕上げ、これを二千屯プレス、或は他のプレス機にかけプレス、焼入れして固くし、再び戻されてきた製品を木ハンマーでひずみとりなどする。所謂鈑金工の仕事である。最初技術指導員の指導を受ける見習期間があった。私達の係はオスマシヤで気取り屋の、でも気のよいOさんという人と、学徒の間で人気のあったSさんという二人の工員さんだった。「万力」に製品をはさみヤスリをかける。何でもない事のようだけれど馴れない者にはこれがなかなか難しかった。それは手先きだけでなく腕と体と一体になって製品が不良品にならないように細心の注意を払ってヤスリをかけるというのである。その姿勢を指導員が模範を示して私達に教えるのだがその気取屋のOさんのやる恰好が可笑しいといって私達は休憩時間にそのまねをしてみては笑いころげたものだった。ともあれ私達は男性と同じ枯草色の作業服に身を固め、学徒の腕章をつけ、純粋な心一途にお国の為にと夢中になって仕事をしたものだった。

 食事当番というのがあって食券を持ってお昼に食堂へお弁当を頂きに行くのである。お腹は空いているのだけれど、そのすいたお腹にさえなお美味しくない、そして独得の食堂のにおいのしみついたお弁当箱の食事を食べさせられた。お腹は一応一杯になるけれど、満足感のない、食後にもなお満たされないものが残った。

 

   機銃掃射

 昭和二十年になると空襲は烈しくなった。この頃になると爆弾投下だけでなく機銃掃射が行われるようになり空襲に対する緊迫感は一層その度を増した。それに種々の噂が流れてきた。立川飛行機では学徒が機銃掃射でやられたとか、中島製作所でもとか。私達の工場でも職場から防空壕までかなりはなれていたので待避命令が出ると、急ぎ身支度をして(それは防空頭巾をかぶり、非常食と救急用具の入ったカバンを肩からかけて)神様どうぞお守り下さいと小さな心に必死に祈りながら壕めがけてひた走りに走ったものだった。無事壕の中に入れてもなお不安は続いた。ここに直撃弾が落ちないだろうか、父や母達は、そして工場は、と、それは果てしなかった。

 

   ×××

  昭和二十年八月、終戦の詔勅を私は疎開先の栃木県烏山在の辺ぴな農村の一隅で聞いた。戦争は終ったのだ、敗けたのだと聞かされた時、瞬間、平和が来る、又昔みたいになるのだ、と云う単純な考えがまず脳裏をよぎった。そして次の瞬間これから一体どうなるのだろうという果てしない不安が拡がっていったのを記憶している。その後現実として迫ってきたものは戦時中から引続く烈しい食糧難だった。農家の縁先に座り込みねばりにねばって母が一枚又一枚と着物を食料に代えてゆく姿が、今その年配になった私の心になお忘れ難く残っている。私達が再び東京に帰ってきたのはその年の十一月である。

 

 

 

 

 

※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)