想い出
(T.K. 三回生・旧姓I)
二十八年前のあの頃、幼稚で単純だったらしい私には、さっぱりこれといった想い出がありません。よっぽど記憶力も悪いとみえ、断片的な想い出がバラバラにちらかっているだけ、果してそれも事実かどうかさえ自信がありません。読んで下さる方々が、それからそれへと想い出の糸をたぐる糸口にしていただけたら……と思います。あらかじめ思い違いがあったら許していただきたいのです。
先月もT様からお電話をいただき、マスコット人形を作って特攻隊の飛行士におくったことを伺ったのですが、そう云えば桃太郎の縫いぐるみを苦心して作ったことがあったなアと想い出されて来ました。でももしかしたら慰問袋の中身だったかもしれないと思ったりして…。
学校の試験勉強でも徹夜をしたことのない女の子が特攻機をつくるために夜通し工場で働いたとき、ヤスリかけや、面取りの作業が単純すぎて、ねむ気に勝つのがこんなにつらいことかと思ったこと。
工場で支給される昼食が、灰色の様な二センチ位の長さの短麺の入ったドンブリ飯で、粗末な食べ物に馴れていた当時でも、やっとのどを通したこと。
青梅の寮で「シラミ」騒動がおきて、衣類の消毒は勿論の事、長いおさげ髪を短く切られたこと(これはS先生がなさったように思います。間違っていたら悪しからず)
終戦間近になって、体力的な限界も手伝ってか、警戒警報のサイレンで防空壕の中に入ると、ホッと一息つき、携帯食糧の炒り米や大豆をボリボリやりながら、学校生活をなつかしがって話し合ったこと。
いよいよ空襲がはげしくなり工場内の壕では危険とかで、工場からはなれて避難することになり、その途中で機銃掃射され、林に逃げこんで、ヒヤ汗を流したこと。まるで手がとどくかと思う程低く降りてきた敵機の中に、ハッキリ操縦士の姿がみえ、機体の黒い影が木の間にうつ伏になっている私達の上を過ぎる瞬間が、何とも恐しかったこと。勿論全員無事でした。
二千屯プレスやドリルの騒音と、ジュラルミンの粉がついたバイスダイ、その殺風景な工場の中で、わずかに少女らしい想い出になっているのは、藤村の詩を、機械の音にかき消されながら暗唱し合ったことです。
東京郊外に住んで、戦災をあまり身近にうけなかったせいか、あるいは、あやつり人形のような生活だったせいか、想い出にうつろな部分が多くてまとまりません。ただ一つ、そのころの体験が、現在の私の中に大きなかてになって生きていることは確かなことです。
特攻隊員
Uさんの思い出
(S.T. 三回生・旧姓F)
戦争もいよいよはげしさを加えた昭和十九年の夏に、その頃三年生であった私達も全員四年生と同じく昭和飛行機工場に動員されました。
今ここに記すにははっきりした月日も分りませんが、戦後ふとした機会に手に入り大切にしてきた新聞によりますと、このU特攻隊員は昭和十九年十月二十六日フィリピンの航空戦で戦死されたとなっておりますので、多分その一月ぐらい前ではなかったかと思われます。
当時私はMさんの班におり南組の人ばかり十人位でしたかしら、第六工場二千トンプレスの奥の方で部品を曲げたりやすりをかける仕事、またジュラルミンに型を描き移して鋏で切るなどの軽作業を、工員さん達と一緒にしていました。小人数で割合まとまっていましたので、こんなこともしたのかも知れません。
前置きが長くなりましたがこんなときにある新聞に学徒出陣で特攻隊志願の方のことが出ました。そのころはその類の記事はもう毎日のようでしたが、この立教大学のUさんは学びの途中、まだ生まれて間もないMちゃんといういとけなきわが一人子を残して、雄々しくも日本男児の誇りを持って祖国のため散りゆくその心に、私達清純な乙女心はいたく感動したのでしょう。早速班全員で慰労金(つまり月給)の中より出し合いMちゃん宛にお便りいたしました。すぐにO先生のところへお家の方より御礼が届き三年南組として出したのが私たちであったことがわかり、こんな良いことは皆でやったほうがよい、内緒はいけませんとちょっぴり叱られたことを思い出します。
私のふとした機会とはMさん二十三才となっていますので四十二年と思います。
父親と同じ立教大学を卒業したのを記念して、靖国神社で遺児が日本舞踊を奉納された記事がくすしくもそのM.U.さんその人だったのです。あれから又六年、今はきっとお幸せに人生を歩まれていらっしゃいますでしょう。
M.U.様のご幸福を心からお祈りすると共に、若しやいつかお目にかかれるのではという気持ちです。
追記
戦後あるラジオ番組でM.U.さんの放送を聞きお便り差上げたところ
おばあ様よりご丁重なお返事をいただいた旨、旧R.M.様より ご連絡がありました。
(※文中の個人名はイニシャルに変更。その他のテキストはすべて原文のままです。)