東京の空襲はますます激しく、電車はしばしばストップして自宅から工場への通勤が困難になった。また家族が疎開して本人だけ工場へとどまるものもあり、空襲で家が焼けたものもあるということで、昭飛では空襲を受けそうもない青梅に武蔵の学徒隊の寮を設けることになった。寮は旧「魚久」の一寮と、「寿々喜」(いずれも料亭)の二寮に分かれ、二寮には寮監としてS先生がご家族ともども泊り込まれて生徒たちの父親代わりとなられた。食事は一寮で、大豆が半分も入ったごはんに菜っぱの煮つけという粗食、昼は工場でのきつい労働にときどきは徹夜作業もあるという極限に近い生活であった。終戦直前には小作工場の近くにも農家の蚕室を改造した小作寮が設けられた。

 家族から離れ、粗食ときびしい労働に堪える日々であったが、十五、六の少女たちを盛りこんだ寮の雰囲気はなぜか明かるかった。

 

 

 

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