青梅寮「別館」

  (K.N. 三回生)

 

 二十八年前……動員先の昭和飛行機で事務系だった私が、青梅の寮に仲間入りしたのは、五月二十五日の空襲で家を焼かれたそのあとのことだった。

 一寮の隣にある別館の二階が私達の部屋で、同室はSさん、Iさん、Oさん。階下には舎監を勤めてくださったN先生とおっしゃる御夫妻が住んでおられた。

 別館のこととて朝夕の食事、入浴などはその都度一寮へと出かけた。朝は起床時と食事の二回、鐘が鳴る。別館にも聞こえるよう、一寮の窓をあけてガランガランと鳴らしてくださる。にも拘らず、私共別館の住人はちょくちょく起床の鐘を聞き逃した。雨が烈しくて聞こえないこともあった。疲れで容易に目が覚めないこともあった。

 一寮の人達が殆ど食事をすませた食堂に小さくなって駆け込み、「コラコラ、寝坊なんかしちゃいかんぞ」。上の空で聞いたO先生のおこごとも、今は懐かしい。

 或る朝ノミの大軍に襲われ、部屋中総がかりで十二匹余りを潰したあの別館も、もう無い。が、廊下の雨戸をあけるといつも鼻の先に立ちふさがっていた崖だけは今年も同じ姿で夏草を茂らせている。

 焼けた家を離れて暮す家族を、そしていつ終わるとも判らない戦争を想い、同室の人達に淋しい涙を見せないため、弱い自分を励ますため、手すりにもたれてしばしば眺めた崖だった。

 戦争を知らない現代の小学生は、空襲の物語を読んで「面白いネ」という。彼等にとってはB29の爆撃も怪獣の襲撃も、同じ肌合いのオハナシにしか感じられないのだろう。

 二十八年の歳月をしみじみと思い、いいしれぬ悲しさと恐ろしさを覚えるこのごろである。

 さまざまな戦時中の体験を、そしてあの青梅での生活を無にしないためにも、私達は改めて、二十八年前を見つめ直さねばなるまいと思う。

 

 

 

 

 

 小作寮

  (Y.T. 三回生・旧姓I

 

   青梅寮から小作寮へ

 当時、青梅線の小作駅から小作寮まではほとんど家がなく、広々とした桑畑が続いていた。桑畑の中の細い道を辿っていくと、途中一か所だけトマト畑があり、まっかにうれたトマトが幾つか朝日に映えていた。このトマトのことは後日話題になったが、おいしそうなトマトを横目でみながら皆の思いは同じだったのである。再び桑畑を過ぎて河原へと続く急な坂を下りると、こんもりとした竹藪があり、その農家の庭先の蚕室が私達の小作寮であった。

 小作寮の開設された日については、Kさんの北京のご両親への手紙の中に、八月一日に青梅寮から小作寮へ転寮したと書かれていたので、私達の小作寮での生活は十四日、ほんの二週間ということになる。小作寮には青梅寮から三回生数名が下級生の世話係りとして転寮を命ぜられた。私もその一人であった。短期間ではあったが、私としては上級生としての責任を痛感させられた日日でもあった。

 戦争末期には、十五—六才の私達にも増産のため夜勤が命ぜられた。夜勤明けのねむい眼をこすりながら、本社のある昭和前駅(現在昭島駅)からわが家と反対方向の電車へ乗って小作駅で下車した。十五分ほど歩いて辿りつくこの寮は、私達の疲れた体をいやすにはあまり快適とはいえなかった。それは蚕室を改造したばかりで、部屋が薄暗く、蚕と桑の葉の臭いがしみついていたので、都会育ちの私達には何となく気味が悪かったのであろう。しかし、当時としては珍しいま新しいへりなし畳の匂いをかいで、きれいな畳の感触に小踊りしたものである。天上を見上げると黒い荒けずりの太い梁が不気味で、床は歩くときしんだが、町なかの料亭の青梅寮とはまた違った静かな趣きがあった。夜勤明けの日は、その薄暗い部屋の窓を風呂敷などで覆って、寝ようと努力したものである。

 

   小作寮の一日

 小作寮の一日は、人員点呼、宮城遙拝、ラヂオ体操、舎監のO先生、K先生等の朝礼訓話から始まる。本社勤めの数名は、本社の食堂で朝食をとるため朝食抜きですぐ出勤である。下級生はほとんど地元の半地下工場へ出勤したようである。

 一日の勤務を終えたあと、たまに本社の共同風呂に入ることもあった。入浴後帰寮すると長い夏の日も暮れていた。夜の自由時間のために夜の人員点呼の時間になると、班長は部屋の畳の敷いてない床のところに班員を整列させて、先生方の巡視をお待ちする。次は布団を敷き大きな蚊帳を吊るのであるが、この時間はいつもはしゃいで賑やかであった。カナブンやハアリが侵入すると気味悪がって騒ぎはますます大きくなった。疲れ果てて床につき、天上の梁を見上げながら寝入るまでの語らいは何であったろう。

 翌朝、その大きな蚊帳をたたむことが私達にとっては難事業で、手に余った蚊帳を何人かでひっぱりあってやっとたたんだものである。

 短かい期間ではあったが、娘心にこわい思いもした。それは夜中のお化け騒動である。これは近所に駐屯していた兵隊さんが、寮の一隅に出没したことであったが、真実がわかるまでは、夜は一人で室外を歩けなかった。幸い事故も無かったようであるが、先生方には昼夜を問わず私達の生活指導から、健康管理や身辺警固まですべてにわたってご配慮くださったわけで、私達が同じ年頃の娘を持つ母親となって、先生方のご苦労が一層深く感じられ、感謝の他はない。

 

 四年ほど前、思いたって小作寮を尋ねた。途中の桑畑もトマト畑も今は無く、家の軒が連なっていた。農家の竹藪の一部が当時の風情を留めているだけで蚕室も畑になっていた。私はその畑の上に両手を広げてたち、空間に蚕室を描いてみた。

 

 

 

 

 

※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)