寮生活の想い出

  (K.O. 三回生・旧姓I

 

   寮生活

 戦争、動員、寮生活、どれをとっても暗く悲しいはずなのに、不思議に私の想い出には、悲惨さも辛さも消え去ってしまい残っていない。ノミに閉口したことも、シラミが湧いて一日工場を休んでお風呂をぐらぐら沸かして衣服をつけたことも、大豆入り御飯に、炒り大豆のおやつで氷川行当時青梅線“下り”の終点は氷川であった)になったことも、その他すべて私には懐かしく楽しい想い出となっている。きっと最下級で重い責任もなかったし、あまりに子どもだった私達は上級生の庇護のもとに気楽に過ごさせて頂いていたのだろう。或いは私がいわゆるもやしっ子ならぬ逞しき子であったのかも知れない。

 

   S先生のご出征

 そんな私でもただ一つ、今でも、いや今だからこそ一層なのかも知れないが、胸を締めつけられる想い出がある。戦局が悪化の一途を辿る昭和二十年六月○日、私達の担任でもあり舎監でもあられたS先生に召集令状が来た。

 みんな不足していたノートの一頁に競ってサインをして頂いた。「一つ鍋の飯も三ヶ月、増産たのむ、従順を祈る、S」達筆なサインである。当時出征することは死を意味していた。入隊の朝、青梅の駅まで寮生全員で送った。疎開して残り少くなっていた三年生を代表して、Iさんと私が立川までの見送りを許された。途中「名残は尽きないから……」と奥様とお子様が小作の駅で降りられた。鄙びた駅で、木の柵をバックに涙一つお見せにならず奥様がお二人のお子様(当時五才と二才位?)と朝日に照らされて手を振っていらっしゃった。後日先生より家宛に御挨拶状が届いた。検閲のため墨であちこち消された中に「小作での妻子の姿目に浮かぶ」と記されていた。悲しくも美しい光景であった。

 先生はイサワに入隊であった。今でこそ温泉町で有名になったがイサワが甲府の二つ手前で石和と書くなど、そのとき地図で初めて知った。立川から汽車で……しかも電化していたのは八王子までだったと記憶している。私達は大混雑の立川駅で自宅から出勤して来たNさんと一緒になった。当然ホームで先生をお見送り、お別れする筈であったが、誰言うとなく汽車に乗り込んでしまった。そのまゝ発車、生きてお目にかゝれるのはこれっきり!!涙がとめどなく溢れ出て、三人ただ泣くばかり、先生に「もういゝから」と諫められて八王子で下車、タンク車など、貨物列車がやたらごちゃごちゃとした八王子の駅から、灰色の煙に包まれて黒々とした列車が涙の目にかすんで消えて行った。

 

 

 

 寮の演芸会

  (K.S. 四回生・旧姓Y

 

   演芸会

 私は、二年生で学徒動員だったから、入寮生の中では最下級生で、しかも背が小さかったので、いつも、他の人々に気おくれを感じていた。当時、工場と寮を往復するだけで、何の潤いもないこの寮で「演芸会」なるものが行われることになった。ところがどういうわけか、こんな私がMさんとともに引っ張り出される羽目になってしまったのだった。(誰かにおどらされていたらしい。)

 Mさんとは入学当初から机を並べていたし、入寮してからも同室、彼女のいる所には必ず私がいるといわれたくらい、全くピッタリとくっ付いていた。寮の結構な夕食のあとなど、部屋の窓越しに月を眺めて感傷に耽ったり、木片で下駄を作ったりしながら、お喋りをして人々を笑わせたりしていた。そんな彼女と上級生達とで、歌、踊り、落語、声色(こわいろ)、などをやったのである。

 主なプログラムは、◇Kさん達の歌—これは当時としては珍しいリズミカルな楽しい歌であった。◇Eさんの歌「月の沙漠」細く美しく澄んだ声で、可憐な感じが出ていて、皆の胸を打った。◇踊りのMさんは、長い袂を振りながら、羽衣の舞いを舞った。或る男の先生に誉められて、彼女は小首をかしげにっこり笑った。◇習字のO先生の声色を真似た私に、「そっくりよ」などといってくれた人がいた。◇田舎から上京した女の子にMさんが扮し、都会のエレベーターガールの私とのやりとりで、彼女は落ち着いたこっけいなところを披露した。◇怪談の「番町皿屋敷」は「……毎晩お菊の亡霊が現われまして、さもうらめしそうな声で、一まーい二枚三枚、おしまい(四枚)」でチョン。◇歌と踊りの「和尚さん」はTさんの出演で「おめめこすってよく見たら、おやおやおや葉っぱの盃、お水のお酒、和尚さん慌てて立ち上がり、ほいこりゃしまった、しまったぞ、こんこん狐にだまされた だまされた。」と、実に表情豊かに、踊ったので、拍手喝采であった。(そばのレコード係もにこにこ顔であった。)彼女は寮生ではなかったが寮に近くて、しばしばお菓子などを持って遊びに来ていたので、私達が彼女を仲間に引き入れてしまったのである。この踊りのほかに、ハーモニカを吹いたり、アコーディオンでいろいろの伴奏をしたりして、会をにぎわしてくれた。◇「兎とかめ」では、Mさん扮する兎がジェスチャーよろしくスタートして、走り廻ってやがて眠ってしまう。その間に私のかめが首をのび縮みさせながら追い越してばんざい!と、こんな調子であった。

 演芸会の出しもののために、それ以前に、廊下の片隅などで彼女達と練習をするのだが、思わぬところで脱線してしまい、あまりのおかしさにすきっ腹を抱えて笑いころげてしまうこともあった。この声に驚いて部屋から飛び出して来る人もいた。

 こんな恥知らずの私を、「全く困った人ね」といわんばかりに見つめている私の姉が、大勢の寮生の中にいた。

 すべてに似かよったところのない姉妹であったから最近まで私たちが姉妹だということを知らなかった人が多かったほどだった。

 

   出征

 この会から幾日か過ぎたある空襲の夜中のことであった。サイレンの音でとび起きて身支度をした私の耳に、S寮長さんと先生の声をきいた。「先生、Yさんは起きません。死んでもいゝそうです」「よし、寝かしておきなさい。」といっているようだ。私ははっとした。そのころ、姉は栄養不足から「かっけ」を患っていたし、熱を出して工場を休んだりしていたから、きっとつらかったのであろう。このことで私も少々恥かしい思いをしたのだから、姉とはこれで貸し借りなしのおあいこになった。

 戦争も終わりのこと、寮の舎監のS先生のところにもついに出征の令状が届いたのであった。急の知らせであった。同室のTさんはじめSYMさん達とで話し合い、にぎり鋏で、めいめいの小指の腹を切り、少しずつにじみ出る血で、ハンカチに日の丸を染めて、先生へのお餞別にした。お渡ししたときの先生は無言であった。部屋に戻ってから、皆は互に背を向けて泣いた。

 

   終戦

 終戦と同時に、種々の思い出を残して寮生活は終わった。私は自分のふとん包みを背負って満員の青梅線の電車にのった。どこかの小父さんが、「あ、蚤がいた」といって私の背中の荷物からつまんでつぶした。車中の人々に思わず軽い笑いがおこった。高円寺の駅までは、姉がリヤカーを持って迎えに来ていたので、荷をおろしてから、私はまた残りの荷物をとりに来た道を戻って行った。これ等、悲喜こもごものことがらは、四十歳をすぎ我が子が当時の私よりはるかに大きく成長した今日に至るまで、尊い体験として生きており、そして年毎に懐かしさが深まってくるのである。

 

 演芸会のプログラム(昭和20年六月末ごろ開催)

※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)