小作寮の思い出

  (K.T. 三回生・旧姓S

 

 動員時代の苦しかった思い出をとのお話ですけれどもう三十年近く昔の話、それに苦しかったことも今ではもう楽しい昔話になってしまいました。

 今考えてみますと学校を離れ、親から離れてどんなにか大変だったろうと思われますが、当時は時代の流れの中で異状とも思わず過ごしておりましたように思います。

 小作へ工場が疎開し、私達も工場近くの農家に寮が移ったりいたしました。作業も徹夜仕事が多くなったと思います。箒で一掃きすると蚤がピョンピョン飛び出す所に住み、皆揃いのザクザクの米袋のような作業衣、アミエビの塩辛だの黒いイルカの皮のカレーに雑穀の混った御飯、夜は空襲におびやかされる生活。

 今の中高生の人達には想像もつかないことでしょう。当時、時たま配給された冷凍のミカンや干燥バナナがとても美味しいものに思われました。

 レジャーだのオシャレだの趣味だの、そんなものは一切無縁、というより知らなかったという方がよいかも知れません。テレビも無ければラジオもニュースか空襲の情報を聞くくらい。本もろくに読めませんでしたが、大した不満も感ぜずにいましたのも、国を挙げての戦争に私達も役立っているという気持があったためでしょうか。小学生のときから戦争の中で育って来た私達でした。それに周りの人々も皆同じようでしたし、また私もまだ純情だったからでしょう。今振り返ってみますと大きな力に押し流されてしまった恐ろしさのようなものを感じます。

 先日のテレビで懐かしい皆さまのお顔をみて、どうしても行ってみたくなり、当日いらっしゃれなかった方達五人で寮を訪ね、想いで話に時を忘れて過ごしました。そのとき電車の中から見ました昭和飛行機が昔そのまま、名前も変わらずに残っているのを見まして何か無気味なものを見た思いが致しました。もう懐かしい昔話しになった筈ですのに……。

 

 

 

 

 

 学校での寮生活

  (M.T. 三回生)

 

 青梅寮の近くのラジオ屋さんで天皇陛下の玉音を聞いたような気がする私ですが、そのときも放心した心地で聞いたことなので今考えてもはっきりせず、記憶の不確かさを今更嘆いております。それから波の引くように家のある方々は次々と寮を引き上げて行かれたのに、家が焼けて家族が田舎に引込んでしまった私は、武蔵高女にそのまま在学するためには家族のもとへ帰ることも出来ず、小さな胸を痛めていました。私と同じ町の国民学校から、あこがれの武蔵に一緒に進学して来たNさんも、やむなく両親の田舎へ転校していったし、このような生徒は大変多く、私はますます途方にくれる日々でした。そのときS先生始め諸先生方のお計いで同じ運命にあった六、七人の生徒を校舎の一隅に住まわせてくださることになり、私達は卒業出来るメドがつき、生活の場と勉学の場を持つことが出来たのでした。

 親まかせで炊事などやったことのない私達が食糧難の中で育ち盛りの食欲を満たすためにした努力は全く超人間的なもので、今思えばよく生き延びて来たことと慄然といたします。乾燥させたかぼちゃの種やいろいろのものを石臼で粉に挽き小麦粉にまぜてパンを作ったり、とにかく自然食の元祖はあの頃の人生を生き抜いて来た人々がハシリだったのでしょうか。一日二、一合の割合いのお米の代りにさつまいもや大豆や豆粕等が配給になったり、ひどい時は冠水いも(水につかって半分くさった芋)等もありました。今思えば哀れという他ない毎日でした。たまに銀メシにお魚をいただくときなど、本当に夢のような喜びで一杯の顔つきでした。青梅寮の延長で家族と離れ、何時も淋しそうに見えた私達を、先生やクラスの方々が珍らしい食べ物を持って来てくださったり、お裁縫等の教材をかしてくださったり、いろいろと励ましの言葉を掛けてくださったことが、思い出深く残って忘れることが出来ません。

 

 

 

 

 

※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)