狂った日日

  (K.I. 三回生・旧姓M

 

    狂気の日

 人はそれぞれの過去を小説にしてしまうものだという。感傷的な日本人はことさらその傾向が強いようである。たしかに過ぎてしまえば想い出というヴェイルにつつまれてほとんどが美しく思われがちなものだ。私にしたところでもの心づいてからのことどもは、どんなに小さな事でもたぐりはじめればきりのないほどにはっきり憶えている。

 桐の花咲く日だまりのままごと遊びや花ふぶきの小学校での数々の遊び、ランドセルにさげたおはじき入れの赤いもめんの小さな袋までもが生き生きと美しい物語となってよみがえる。

 それがあの戦争という黒い雲に突然掩われてからというもの、想い出の扉は閉ざされて再び開くことを頑なに拒むのだ。忘れようとしても忘れることの出来ぬそれは触れられることの怖しさにおののいている。

 四たび戦火の街を、累累とつづく焼死体をこえつつさまよった十五才の頃の私が希ったものは何であったのか…。

 疑惑の一片だに抱くこともなくひたすらに信じ希った“わが国の勝利”。死を賭してまでも身につけ、のたうちまわる炎をくぐりぬけて守りぬいた教科書。それらは一体何のためであったろう?

 凄絶な空中戦に敵機がバラバラになって落ちるのを見れば、そこにも失われる一つの若い生命に一瞬悲しみをさそわれることはあってもそれをふりはらうように撃墜させた味方の飛行機を讃えてよろこんだあの狂った心は何であったろう。

 

   読書

 とはいえ、それほどに燃えた敵愾心のかげには無論もうひとつの心は在った。何といっても恋多き齢ごろである。戦火で家を失って青梅の寮に入ってからは、少くともそれまで工場への通勤に費した時間だけゆとりができて本を読んだり近くを散歩したりした。鳩の巣で電車を降り、きれいな流れのある処までいってわさびを採って来たこともあった。手に入る本は東西も内容の難易も問わず貪りよんだ。

決戦の烈しい生活の中で現実から逃避する夢を追うような気持……”と先生から注意されても白秋や藤村の詩をそらんじたりした。そのころK先生が貸してくださった“風と共に去りぬ”には強く感動し読み進むたびにそれについての感想を日記に書きしるしている。

 “荒れにし草木野も畑も 神のめぐみの露おかず 滅びし州のすがたをば この一枚の紙に見よ” の詩の抜き書きはやがてその後敗戦によって私の心に再び深い感慨を与えている。

 実際、本を読んでいる時だけは自由な少女になっていられた。その時敵を憎む心もなければ“撃ちてしやまん”の精神に心身を硬くすることもなかった。

 今はもう故人となられた二回生のHさんに私はいろいろ教えられている。あの戦時下に在っても彼女は日本伝統の歌舞伎のすばらしさ、美しさを私に語られた。又演劇の面白さをも彼女のお陰で私は覚えた。

 Hさんご自身の創作(戯曲)もいくつか見せて戴いた。史実に基づいて作られた時代劇だった。青梅の寮(二寮)で劇を演じたことがある。専攻科の方々を送る会だったようである。終戦の年の六月だったろうか。三階の部屋の者全員で脚本をえらび最後に残った二つの候補が“細川ガラシヤ夫人”と“春若丸”で結局後者にきまり、Nさんが春若丸に、Oさん、配役の都合で一寮のNさんが賛助出演され、私が解説と“岩間の婆”を演ることになった。婆の役は大変むずかしく、このときその演技指導をしてくださったのがHさんであった。

 

   古い日記

 こんなことは灰色の寮生活でのわずかな学生らしい想い出の片鱗である。工場の作業場に於いても熾烈な戦争下を忘れさせる一時もあった。雑木林の落ち葉の堆積の中に身を埋め空を仰いで雲のゆくえを追いつついつしか空想の翅をひろげるうち突如として鳴りひびく空襲警報のサイレンは夢みる乙女たちを忽ち容赦なく決戦に望む雄々しい(?)女兵士にかえるのだった。神風の二字と日の丸を染めぬいた鉢巻をぐっと締め直すときのあの一種独特の緊張感に当時はやはりそれなりの純粋な矜持が在ったはずである。その純粋なる矜りがあった故に軍国日本の少女だった私はあの八月十五日の日記にこう書いたのであった。

 

   今日この日を何と書き表さう。ただ悲憤の涙あるのみ。國民として立派な働きの出来なかったことを天皇陛下に心から御詫び申し上げる。昭和十六年十二月八日の宣戦布告以来、ただ勝利を目指して一途に邁進した國民はこの状を予期はしなかった。

   三千年の歴史は、噫、永久に光輝ありと稱した歴史は茲に憎き米英により蹂躙された。

   正午、涙と共に拝聴した陛下の御言葉。

畏くも尊い御身をもって告げ難き事をお告げ遊ばされたのである。(ここで私は居ずまいを正してその詔書を謹寫している)

   神様の御聲、天子様の玉音、私達は勝利の暁に拝したかった。

日記の文はさらに終りに近くこう記してある。

   “皇國民は徒に意氣消沈してはならぬ。断乎として闘ひ抜かう。神州は不滅である”…と。

 

 八月の末の動員解除。再び学園へ戻った私は一体何を考えたことだろう?皇國民の一人であるはずの私は何をしたというのだろう?

 古い日記帳の狂ったページを私はいくたびかやぶり棄てようと思った。私の思春期を無残に黒く塗りこめ、血腥く狂わせた日日。なまなましく訴えるノートをひらけば胸が疼く。然し胸が痛んでも、顔をそむけたくても、やはりその悲しい歴史は顧みなくてはならないのだと思う。傷のいたみを忘れようとせずにむしろ常に感じとって行かねばならない。年経て古びた粗末な紙の日記帳を静かに閉じ、手のひらでゆっくりその表紙を撫でるようにしながら、まるで全く別の人に対するように、今、私はそのころの私自身をたまらなく“かわいそう”に思う。

 そして、すくすくと成長していく二人のむすこを戦場に送るようなことは決してあってはならない、のびやかに幸福感にみちみちて話しかけてくる娘二人に思う存分美しく楽しい夢を持たせたい、と希って已まない。

 私たちが知らず知らずのうちに辿ってしまった大きな過失の道を再び歩むことのないよう、どんな形ででも戦争の怖しさ、人を憎み傷つけ合うことの悲しさを、次の世代の若者たちに伝えていくことこそ、これからの私たちに課せられた使命だと信じる。

                          (昭和四十九年四月三十日)

 

 

 

 

 

※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)