二寮の寮長として

  (M.K. 二回生・旧姓S

 

 戦争中の措置で卒業を一年短縮された私達二回生は高女四年で卒業しました。上級学校の入学はきまったものの四月から六月までは卒業校にのこることになりました。そして学徒動員生として下級生といっしょに、昭和飛行機小作工場に動員され、青梅寮から工場へ通う生活がはじまりました。青梅寮には、高女三年、四年と私達卒業した南組の一部のものが専攻科として入りました。今の学制でいうなら、中三、高一、私達は高二の生徒であったわけです。専攻科の私たちは六月末まで、あとの下級生は終戦の時まで青梅の寮生活がつづきました。

 師範学校に入学予定の私は、先生より「将来教師になるのだから皆の面倒をみるように」とのお話で二寮の寮長をおひきうけすることになりました。今にして思えば、十六才の少女ではたいしたことはできなかったと思いますが、その中で私は人員確認ということに最も心をつくしたように記憶しています。空襲の夜、消防隊の番に当たられた舎監のS先生の奥様にかわって、お嬢さんを背負い、坊や(Aさん)の手をひき、皆さんを誘導して避難したことも思い出されます。また私の部屋には、ホームシックにかかったり、いろいろの事情のある下級生が集っていらして夜ふけまで話し合ったこともありました。

 戦争末期のことで、食糧も乏しく慢性飢餓状態で、寮ではいつも煎り大豆を食べていたように思うし、ある時は空襲でP51ムスタングから機銃掃射をあびせられ、作業台の下に逃げたこともありました。しかしそんな切迫したときであっても、みんな結構明るく、少女らしくすごしていたと思っています。これは親身になってお世話くださいました先生方のご指導のおかげであると同時に、一緒に苦楽を共にした方々のかしこさ、健気さであったのではないかと思います。

 戦後の混乱が落ち着き、折にふれては思い出すのは青梅の寮生活のことでした。一度訪れてみたいと思うのみですごしていましたが、昨年頃より有志のご尽力で、とうとう六月二十四日再会のはこびとなったわけです。あの二寮であった料亭「寿々喜」は殆ど昔のままの姿で残っていましたし、二十八年前の少女達もその面影をのこして、心をはずませて集まってまいりました。断片的にしか残っていなかった記憶も、みんなの思い出により、昔が再現されたようでした。皆さんが持ちよられた貴重な資料の数々に本当に感心させられました。

 このような会がもてたのは、戦争中の異常な経験をさせられても、大きな傷手をうけずに無事終戦をむかえ、現在のような平和な生活を営んでいるからかもしれません。平和であるよろこびを、しみじみかみしめているこのごろです。

 

 この春、京都を訪れた時、洛北三千院の庭で、すれちがった女生徒の胸に武蔵のバッジをみつけました。つぎの日嵯峨野大覚寺の駐車場で、武蔵の修学旅行バスをみかけました。ただただなつかしく思いました。

 

 私には武蔵や青梅時代の生活が、いつまでも生きているように思っております。

 母校のますますのご発展と、先生方のご健康をお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 動員時代の想い出

  (A.N. 三回生・旧姓N

 

   動員生活

 昭和二十年四月八日より同年七月末日まで私は青梅の第一寮で生活していたらしい。自分のことをらしいと書くのは甚だおかしい話だけれど今こうして二十八年前の日記を読んでみてやっとその頃の様子を少しずつ思い出しているのだから人間の記憶力というものは(私だけかな)はかないものである。

さて、私は一人っ子であったせいか多勢で生活することが楽しかったといってはおかしな表現であるけれど毎日を割合満足して過ごしていた様子である。しかし日記の中のところどころに先生の検印があるのをみると仕方なくその様に書いていたのかもしれないが、今振り返ってみても哀しかった思い出はない。そのころの少女としての青春が、今の十四、五才の乙女達にくらべ物質面でこそ全然ちがってはいるものの、精神面ではよく自分達の現実の姿をわきまえて充実した毎日を送っていたのではないだろうか。

 私達は第二の故郷としての寮生活を出来るだけ楽しく明るいものにしてゆくための努力をおしまなかった。お風呂当番になると工場から四キロ近い石炭を今の満員電車とはくらべものにならない混み方の中を(アミ棚に乗る人あり、窓は出入り自由)しかもいつ空襲になるかもしれない所を運ぶ。そうすることによって明日はみんながお風呂にはいれるから。大きなミルクかん一杯の牛乳を、しかも熱いのを棒に通して二人でさげて歩く。あの乳牛からしぼるときのような大きな容器である。電車が混みませんように、途中で警報が鳴りませんように祈る。混んでいるとこぼれるし空襲になっても置いて逃げることはできないから。でも私達は不平はなかった。あっても誰もいわなかったのかもしれない。たびたびの停電にもローソクのもとで勉強し、本を読み、手紙を書き(一日に十通も書いたときもある)日記をつけ、それぞれに疎開した友を想い家に残っている父母や兄妹達のことを語り合いはげましあってまた明日を思った。今の子ども達に話してもわかってはくれない。もちろん教育そのものも違っていたし、一人の人間の生命の重みというものなど全然理解されない時代ではあったと思う。しかし現在は考え方の相違はあるとしても、何か根本的なものが忘れられてしまっているのではないかとふっと思ってしまう。こんなことを考えてしまうのも二十八年の年月のせいであろうか。

 毎日の警報も一機や二機のときなどは相手にしなかったけど、疎開退避命令というのが出ることがある。これはなるべく遠くへ避難せよというわけである。幾度目かのときは、立川、昭和方面が危いというので組長さんと一緒に門を出てどんどん走った。南拝島公園を抜け畑を通り橋を渡り汗をかきながらやっと小高い丘にたどりついた。瀧山という所だったと書いてあるがそこからは昭和飛行機がひと目で見渡せ、大きな木々がこんもり茂っている中に小さなお宮もあった。腰をおろすと川の近くだったのかせせらぎの音も聞こえ静かにしていると小鳥の声もきこえてくる。みんなはまるでピクニックにでもきたような気持ちになって四つ葉のクローバーをさがし歌をうたい寝ころがって空をみた。時々きらっきらっと光ったり遠くで爆音がきこえてくる。毎日の何かにつかれた追われたような時間の中で、このひとときののどかさは一体何だったのだろう。

 

   工場での授業

 私達はなんといっても生徒である。だから工場の中でも授業があった。私はちっとも勉強家ではなかったのに、空襲になると授業が抜け残念だと書いてある。壕の中でノートを整理したり、予習、復習もやった。本もよくまあ読んだと思うほどこのころによんでいる。やはり生徒としての気持は誰の胸の中にもあったのだと思う。O先生の国語、M先生の物象(今の物理かな)N先生の家庭科、何か栄養とかビタミンのことが書いてあるけれど今でこそいろいろの栄養学が盛んだけれど、このころは一体何をしたのだろう。人間が生きるための必要最少限の栄養のお話でもあったのだろうか。A先生の講義の中で、勝負はともかくとして、自分自身の向上に常に努力すること、美しい心の持主になること、そしていつも自分を見失わないよう行動しなさい、これ等三つのお話にはとても感動していたらしい。この時代としては背景を考えても異質の内容であったためかもしれないが現在の若者にとって、否人間の一生にとって常に指針となるべき言葉であると今でもしみじみ思う。

 

   徹夜作業

 私達は工場で、九九艦爆、ダグラス、紫改、等の名前を記憶しているけどこれら飛行機の部品を二千トンでプレスしたり、シャーやハサミで切ったり、ドリルで穴をあけたりヤスリをかけたりの作業をしていた。そして特急だといって残業や徹夜もあった。残業もつらいが徹夜はきつい。しかしたのしくもあったようだ。ねむくなると合唱したり、恐い話をしたり、ときどき顔を洗いに行ったりしては目をさます。こんなに一生懸命しているのだから日本はかならず勝つと信じながら朝までがんばった。それでも六月も末になると徹夜と張切っていても仕事がなかったり、B29P51の爆撃で工場もやられると停電となって仕事が出来なかったりであった。そんなときでもなぜか本を読んだりノート整理をしたりすると工員さんに叱られるので裏山にほうき草をとりに行ってほうきを作ったりしていた。

 

   病気

 六月の梅雨のころは病気になる人が多勢出た。大豆の入った玄米に近いご飯で、しかも暑いので水を飲む。おなかをこわす人、足がむくんでだるくなる人、(脚気である)、胸の痛む人(恋ではないのである)、しかしみんな気力でがんばっていた。意志の弱い者はダメだと先生からも叱られる。ハサミで厚いジュラルミンの板を切るので手はマメだらけ、しかし痛いとはいえない。誰もが苦しいのだからとじっとがまんの子であった。今の受験生にもこのぐらいの気力があったら毎日の勉強などなんでもないのにと思えるのだが、「こちらは頭脳労働者、お宅は肉体労働者」とかるくいなされてしまうのでお話しにならない。

 

   帰宅

 寮生活では外出(家に帰ること)、手紙、お風呂が三大たのしみであったらしい。これは海兵や陸士に行っていた方達も同意見で特に彼等は外出が別の意味でまたれたかもしれないけど私達は家へ帰れるのを指折り数えてまっていたものだ。二週間に一度の外出日のほかにも休電日とか徹夜あけにはゆるされて帰ったときもある。今ではバスに乗ることしか考えられない道のりであっても、そのころは歩くことなど平気で飛ぶようにわが家へ帰り、父や母の無事な姿をみて思わずじーんと胸がしめつけられるようになったのを覚えている。しかも不思議なことに両親の年齢は丁度今の私達と同じくらいで、まだまだ元気で働き盛りと思うのに、留守中のことをとても心配しているし、自分のいない間さぞや御苦労であったでしょうとしみじみ書いている。母が弱かったせいもあるとは思っても、大変親孝行であったのか、そのころの40代はもう老人に入る年代であったのか、それともあのような非常の時代であったからだろうか。ともかく今の親子関係では考えられない結びつきがあったと思う。母の手作りの食事、家庭科の実習といってお菓子を作ったり、一家揃ってのたのしい団らん。そしてもう一つ家へ帰るたのしみに花があった。もちろん畑にはじゃがいも、かぼちゃ、とうもろこしといろいろお野菜も植えてあったけど父が好きであったので庭には四季おりおりに花が咲いていた。特にクリーム色のバラが大好きであった私はその甘い香りをむさぼるように吸い込みあきずにながめていたものだ。つつじ、チューリップ、ひまわり、寮に帰るときいつも花束にして持って出ても、電車が混んでいたり、途中で空襲になって壕の中においてきたり、それともモンペをはいてお花を持っていることがはずかしかったのか無事にはもちかえっていない。花を愛することなど忘れてしまっていた時代でもあったから仕方ないかもしれない。しかし今は衣食足って礼節を知っているのだろうか。あの何もなかった時代の手作りの家庭料理を、心のかよい合う団らんを、美しいものは美しいと思う素直な心を、感謝の気持を。私も忘れていたかもしれないとこうして昔を偲びながら反省しているところである。

 

   防衛宿直

 八月から自宅通勤となったので防衛宿直というのが廻ってきた。これは学校に泊って食事の用意をしたりして先生方と御一緒に学校を守ることであったらしい。今思うと終戦の四日前、十一日から十二日にかけて泊っている。私達のあと二組目の方達はどなたであったのか知りたいものである。なつかしい武蔵境の道を本当に久し振りに歩き感無量の気持、また広い校庭に南瓜がごろごろしていたことが書いてある。当直のAS先生をはじめM先生のお別れ会とかで多勢先生方がいらしたらしく生徒は何名であったのか忘れてしまったけどお料理作りにてんてこまいしている。そして荻窪のO先生(美術)のアパートまでお迎えに行って御一緒に夜の道を学校まで帰ってきたり。何やらロマンチックなムードであるはずのところへ警報が鳴ったり、かやをつっていてノミをつかまえた話が出てきたりでさんざんであった。翌朝五時半起床、ともかくこのころは早寝早起き。朝食をすませてあとは自由時間。ドイツ、イタリアと破れ、更にソビエトの参戦、やっぱり日本はどうなるのだろう、こんなに世界中を相手にして…、とみんなで話し合っている。そして今はただ自分のしなければならないことを一心に力の限りやりましょうと約束し合う。これが終戦三日前の心境であった。

 

   終わりに

 八月十五日を境にして日本は180度の転換をした。如何にも民主国家となり自由を謳歌しているようではあるけれど何か大きなものにおさえつけられているような、主体性のない自主性のない人間が出来つつあるように思えてならない。せまい日本ではせめて心だけでもゆとりのあるおおらかさを持ってといっても無理かもしれない。しかし政治が悪い、教育体制が誤っている、と叫んでみてもどうすることもできない現状である。でも、もし世の中の母親達がこのまちがいに少しでも早く気がつけば、おかしな教育熱からさめて本当の人間性を身につける教育にめざめたならば、二十一世紀の日本を背負える若者を育ててゆけるのではないだろうか。なぜか戦争中の話を子どもにしたがらない親が多いという。私も今まで機会がなかったといえばそれまでだけどあまり話していない。今回こうして古い日記をよみ返すことができ、一人の女のそれこそ小さな歴史の一こまではあるけれど、戦争をしらない子ども達と話し合い考えあってゆけるチャンスを与えて頂いて、本当によかったと思っている。最後に御発案くださったT先生、御世話いただいたTさんを始め皆々様に心からの感謝をこめてペンを置かせていただきます。

 

 

 

 

※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)