寮生活の献立
(R.F. 三回生・旧姓M)
なつかしい青梅の寮、その前の細い路地に立ったとき、あゝ、思い出しました。私達第二寮の生徒はここへ整列して第一寮の食堂へ朝晩出かけて行きました。「今朝のみそ汁は何だろう、夕べの残りではないかしら。今晩のおかず、たまには肉もたべたいなあ。お昼のおべんとう、またタニシのカレーかしら。」
動員の始め十九年の秋、まだ本社にいたころは乾燥バナナ、南京豆、サイダー、冷凍みかんなどの配給があって、さすが軍需工場だと感心したものでした。それが半年もたつと三度の食事がやっとの状態、当時十五才、食べざかりのすいたおなかを、どうがまんしたか今考えても全く思い出せません。
翌年四月に入寮して毎日の献立をノートにメモしたのもきっと食べものに執着があったからでしょう。始めのうちは、たまに肉も入っていました。それが一ヶ月もたつうちに、肉はおろか魚さえだんだん姿を消し、葉っぱや大根ばかり。今の子ども達にこのような献立が想像出来ますでしょうか。
大豆どんぶり
(T.S. 三回生・旧姓W)
二七七!これはなんの数だかわかりますか?寮のドンブリの中に米粒に混ざっていた大豆の数なのです。むしろ大豆の中に米粒が少し混ざっていたというほうが正しい。あまり大豆が多いので、一粒ずつかぞえながら食べて、食堂で一番最後まで残ってしまったのをおぼえています。(かつての代用食の大豆が、昨今の値上がりで貴重がられているのは皮肉ですが。)
主食・副食の区別もなく、ただじゃがいもやさつまいももよく食べました。ほうれん木(ぼく)の味噌汁も。工場で昼食になにやら肉の小間切れの入ったカレーライスが出ました。喜んで食べた後の昼休みに、工場の裏の調理場の横の大桶に真黒な大きなカラスの死骸が山積してあるのを見てビックリしました。あのカレーライスの肉はカラスの肉だったようでした。グァム島の横井さんではないけれど、食べざかり、伸びざかりのわたしたちでしたから、なんでも口に入るものなら、ただ喜んで食べるのに夢中でした。
お腹が空いてたまらないので、先生方の目をぬすんで、朝早く寮から抜け出して近くの農家に食糧の買出しに行きました。でも手に入ったのは一、二個のキャベツだけ。夜、数人のお友だちとコッソリ線切りの塩もみキャベツを作って食べたそのおいしかったこと。持ち寄ったコップや湯呑みに分けて食べたその味はいまも忘れません。
徹夜勤務をして工場の増産体制に協力!とは表向きのスローガンで、その実は徹夜明けの翌日ののんびりした休日が欲しかったのです。
青梅橋から川原に降りて、明るい七月の太陽がまぶしい多摩川のほとりで過ごした日。たしか川原には何人かの町の子どもたちが遊びにきていて澄んだ水の川底のかじかを採っていましたっけ。清らかに流れていた川の水と、明るく太陽の輝く空の青さと、自由なそして平和な時間を過ごしたあの日のことが、動員生活の日々の中でなによりも強くわたしの心に残っています。
(※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)