青梅寮の思い出

  (F.O. 三回生・旧姓K

 

 青梅寮へ集合のお声をかけていただいたのに、都合で欠席、残念に思っていたところへ六月二十八日朝TBSテレビから「二十八年目の少女達」と題して、突然三十人ほどのなつかしい顔、顔が目の前に映し出されて来ました。影絵のめぐるように思いおこされる寮生活のあれこれ、戦に勝つことのみを信じて、汗とほこりにまみれて働き続けた体を休める唯一の憩いの場所でありました。

 一夜、東の空に花火のように美しかった照明弾のかげに油脂焼夷弾が我が家に落とされていたと聞かされ、身のすくむ思いをしたり、夕食の数を調理場へ報告するときに、白米のおかゆが食べたいばかりに、お腹が痛いと申し出る人が多くて叱られ、先生に泣きながら話をしたことも思い出されました。

 束の間の楽しいこともありました。近くの住吉神社にお参りをしたり、街道に西日をうけながら二、三人の友と歌を歌いながら、僅かばかりのリリアンを買いに行ったり、一、二寮集ってのささやかながらも楽しい演芸会、このようなときの先生方のお骨折りは、いかばかりだったろうと今になってあらためて感謝の気持でいっぱいになります。

 過ぎ去ったことはみな良い思い出に変わるものなのでしょうか。ただ一度隣の映画館に消燈時間を過ぎるまで、内緒で見に行った映画の題名「後に続くを信ず」だけは未だに忘れ得ません。国のためにと散られた方々を考えるとき、平和な夕空に鳴る夕焼けこやけのチャイムを合図に楽しく遊び疲れて帰ってくる我が子達の幸福を思い、いろいろな悩み多いこの世の中を克服していける立派な人間に成長してほしいと願うこのごろです。

 

 

 

 

 

 ざくろの花

  (I.T. 三回生・旧姓Y

 

 あまり思い出したくない、できれば無かったことにしたい、そんな気持で二十八年経った今、青梅といって先ず頭に浮かぶのは、

 「雨にぬれた朱色のざくろの花」

並んで食事をした一寮へ行くとき、塀越しにとても鮮やかだった。

 「月見草」

 たった一度皆で多摩川へ散歩に行った川原にたくさん咲いていた。

 「カンナ・ダリヤ・ヒマワリ」

工場のあった小作の駅は真夏の太陽に照りつけられて花いっぱいだった。

 昭和二十年四月、一年下の妹K子が、青梅の寮に入ることになったので、私はそれまで三年間通った竹台高女から武蔵に転校し、青梅の寮生になった。純粋な武蔵の生徒ではないということで、 ある一部の先生からは非常に冷たく異端者視されたが、やはりそれだけ私も第三者的目で一歩離れた所から皆を観察していたかもしれない。

  下町である上野の山にあった竹台高女から三年生になると王子の陸軍造兵廠に動員された。そこでは毎朝「軍人に賜りたる勅語」を暗誦、作業は高射砲の弾丸の 信管の組立で、火薬の充填では一歩間違えば自分の体はフッ飛んでしまう危険にもさらされ、又三月十日の大空襲ではその日まで一緒に働いていた学友が何人も行方不明になったり、トラックで何台も何台も山ほどの死体が運ばれるのも目撃したりした。そして二十年四月、四年生になるときに両親の強い希望で武蔵に転校することになったのだった。

 小作の林の間にある半地下の工場は、私が行ったときにはもう仕事もほとんどなく、木片で下駄を作ったり、工員さん達とおしゃべりをしたり、声の良い人達が集ってコーラスをしたりして、何か非常にのんびりと、又底ぬけに明るく女学生らしい華やかな感じさえうけた。

 青梅の寮ではS先生御夫妻が、とてもやさしくしてくださったし、少し離れた部屋にいる妹K子が、生意気にも先輩ぶって「ふつつかな姉ですがどうぞよろしく」とか皆に頼むのはいまいましかったが、相棒のMさんとお笑いを一席やったり、結構チャカチャカやっていたので姉の私としては自分のことだけ適当にしていれば良いので非常に楽だった。夜空襲警報が出たとき、「死んでも良いから寝ている」と言って避難しないで頑張っていたので、S先生や寮長のSさんには御迷惑をおかけしたかもしれない。

 機銃掃射を受けたこともあるのに、何故か今思い出すのは、いつ来るかわからない電車を待った小作駅の花であり、月見草、ざくろの花なのです。これは、青梅、小作の生活が、春四月から八月までだったという季節の関係かもしれないし、或いはあまりにも悲惨なことはすべて忘れてしまったためなのかもしれません。