報償金

  (A先生)

 

 武蔵高女の思出は欅と赤松林に包まれて美しい楽しいものばかりであるが、戦争と動員の条件が加わると、一つのイメージが私には定着しており、実に自分本位のものであるが、暇のある方だけに対角線読みでもして頂きたい。

 それは夏も半ばを過ぎた頃で、夏休み返上で暑い毎日を生徒諸嬢と通い続けた昭和飛行場の一日が終った或る夕べ、山手線の御徒町駅で降り、(当時の私の家は下町)歩いて数分位で俄の夕立で、とある事務所風の軒下に雨宿りした。背のリュックは札束で一杯でこれだけは濡らしてはいけないと思う。始めて大金を身につけて落着かない感じで土砂降りを眺めていた。

 これは三年生全員の始めての給料、(たしか報償金とか言ったと思う)で、係りの私が一括して工場から受取って翌日は夫々の袋へ(日数計算して)入れて各クラスへ渡す段取りになっていたらしい。それならば翌日、私が工場から受取ればよいのであるが、その辺の事情が今となっては全然記憶がない。その作業がたいへんなので自宅へ持帰ってしようとしたのか、しかし灯火管制下の暗い室内で札束を一枚一枚と数えた記憶も全然ない。当時、空襲でもあれば一朝にしてすべては灰になるので金が一度支払われたらその後一切はそれを受取った者の責任というそんな不文律があったためかも知れない。

 はげしい雨も一しきりでやみ、幸いにリュックの中味を濡らさずに再び家路を急いだが、修理もとどかぬ舗装道路は今の雨で到る所水たまりができ、ひょこひょこ跳び越えてゆく、既に薄暮で、あたりに人影もなく妙にうら淋しい街通りがいつまでもつづく。

 以上、そんな必要もないのに、一度は夕立の危険にさらされながら、ついに濡れなかった手の切れるようなお札数枚、それが皆さんの手にわたった最初の報償金であったというつまらぬ裏噺しである。

 

 

 

 

 

寮の生徒たち

  (T、旧姓K先生)

 

 寮は二ヶ所ありましたね。青梅の二寮はベテランのS先生がつきっきりで大勢の生徒一人一人の父親役を引き受けていらっしゃったので家庭的雰囲気がムンムンしておりました。一寮の方はおすまし型で大人っぽい感じのようでした。皆で大声で歌をうたったり、おしゃべりしたら楽しくなるかな、とやってみましたが、A先生のようにうまくゆかず、ひとりでからまわりしてしまい、かえって皆さんにフッと淋しさを感じさせてしまったことがつらい思い出として頭の隅に残っています。

 几帳面なT先生の洋服の背中が、鉄カブトですれてそこだけうすくなってました。

 片方の手を汚さずいつも白くきれいにしていた、そしていくら皆さんに非難されても絶対に片方は使わない(片方では仕事出来ないのに?)Aさん。

 ヒジを外に張り、背すじを伸ばし、端正な日本人形のような面持ちに美味い・まずいなどの表情を全く表さず、美しく食事することを教えてくれたBさん。

 物静かで包容力があり、黙っていてもいつもお姉さん役のOさん。

 何をやらしても抜群な運動神経と行動力、体力の持ち主で、しかも頭の回転が速く、もたもた組に要領がよいと悪口を言われても、すまして我が道をゆくTさん。

 それと対照的に色の白さがそのまま潔癖性を表しているような怠けることを許せない、自分にきびしすぎるOサン(余談ですが就職先の上役が堅すぎて困るから何とかしてくれ……と。今どきちょっと聞けない話ですね)

 頭がよくてきれて冷静にテキパキと物事を処理し、すべてをまかせて安心なMさんには畏敬の念を持ってました。顔色の少し冴えないのが気がかりでしたが。

 出来たての餅がふくれたような丸い顔がいつもニコニコで、時折すっとんきょうな声を出し皆を愉快になごやかにしてくれたNさん。

 ウィットに富み、一見いたずらっぽく光る黒い目の奥のあまりにも神経質で、今にも参ってしまいそうなのに、よく気力でがんばり通したKさん。

 健康そのものの頬をほんのり赤らめ、口を少しとんがらせたおこったような顔で — それが真剣な時の表情でほほえましくたのもしい — 入場の号令をかけていたIさん。etc

 書いているとそろそろ老化現象のはじまった頭の中に、つきぬ泉のように湧き出してくる二十八年前のままの皆さん方のこと、書ききれませんので終わりますが、ぬけるような青空にキラリと光る飛行機を目で追いながら、昔あれを作っていたのよ、と話しても誰も信じてくれない夢のような本当の話、夢でもいいではありませんか。今、現在生きているということを感謝しています。

 

 

 

 

 

思い出

  (K先生)

 

 私が武蔵高女に赴任したのは昭和十九年五月なので丁度三十年になる。その当時の武蔵は人々に言いふるされているように自然の美に恵まれた理想的な学園でした。動員中の小作寮についての思い出ということですが、私は二年生の担任で生徒と共に昭和飛行機工場に出動し小作寮に行ったのは臨時の付添であり短期間であったので、特に変った事もおこらず広い農家での毎日でした。食糧難の時でしたので配給の弁当が待ちどおしかった事がなつかしく思い出されます。長い年月がたちましたので記憶もおぼろですが、特に印象深かった当時のことを書いてみたいと思います。

 生徒 — 明朗、清純、優秀という文字どおりの生徒達で中央線沿線では名実共に高い楽しい学校でした。余裕のある勉強態度、クラス対抗の試合があって負けると、涙を流して残念がるという涙ぐましい生徒達でした。そしてお掃除学校と云われるほどの美化の徹底、勤労の精神が身についた農耕作業等、今から考えれば全く驚くほどの時代でした。

 空中戦 — 戦局が急をつげ校庭には防空壕がほられ、空襲警報が鳴るや否や防空頭巾をかぶって防空壕に待避する。B29の編隊が三機、五機とうなりを立てながら軍需工場をめざして進む。高射砲が轟然とひびく。不安と恐怖の気持ちで仰ぎみる。日本軍の小さな飛行機がトンボのように追跡する。アッという間に敵機にうたれて火をふいて落ちて行く。本当に映画のシーンを見るような夢のような世界でした。

 其の後も空襲は益々烈しくなり、艦載機が飛びかい、工場が次々と爆破されて恐怖におののきながらも勝利を信じて疑いませんでした。国民は皆忠君愛国、滅私奉公の精神に貫かれた「横井さん」であり、「小野田さん」でした。

 

 

 

 

(※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)