桃の実

  (O先生)

 

 武蔵高女の生徒が、昭和飛行機工場へ動員されて、各現場に分かれて働くようになると、学徒課長のOさんとその下にいるSさんから、毎日のように生徒の現場情況が教師たちに報告された。○校の○部の男子が工具の盗みを働いたとか、○部の○校の女生徒は風紀がよくないとか、主として悪い問題が大袈裟に伝えられたようだ。またかといって、面白くない顔をしていた他校の教師を時々見受けたが、その渋面は今でも心に浮かんでくる。一応指導管理の不行届きとして、教師が注意を受けた。

 「武蔵の生徒さんは、みんないい人ですね」と、眼鏡をかけた背の高いSさんが、ロシア人のような顔をほころばせて、よくいっていたが、わたしはお世辞とも、半ばほんとうとも思って慢心していた。

 戦況が次第に激しくなると、工場の疎開が噂され、まもなく武蔵の生徒も一部が小作の半地下工場へ移ることになった。随って家庭よりの通勤距離が遠くなり、そのための学徒寮が青梅に生まれ、出来るだけ学徒は入寮するようにとの命令であった。しかし親元から年頃の娘さんを引き離して、一切の責任を教師が負うということになると、各家庭は勿論学校側にもいろいろの事情があって、そう簡単には運ばなかった。工場外での生活指導が加わってくるので、二十四時間教育ということにはいささか自信はなかった。

 わたしも青梅の第一寮の一室に泊りこんだ。そこで一日生徒たちの話題を聞き、時には夜おそくまで国語の授業のまねごともした。ただ、しらみの問題が生じた時には弱ったが、S先生の奥さんが寮母のように生徒の面倒をみて下さったので助かった思いであった。そのS先生もいよいよ出陣ということになって、人手はますます薄くなった。そこへまた、小作工場の近くに新しい寮が出来て、あとから動員されてきた下級生を入居させることになった。当然、ここへも行って泊らなければならない。小作寮は、町中にある青梅寮とはちがって、森の中にある一軒家、大きな農家の蚕室が当てられて、灯火管制をしている夜は、あたかも山中の廃屋のような静寂さで、幽霊話も出そうな二階家であった。

 それでも、大して気にかけるほどの問題もなく過ぎて行った。ところが、この小作寮に泊ったある晩、もう相当空襲の激しくなったころで、今夜も敵襲があるだろうと、武装したまま横になっていた時、家主から突然呼ばれた。

 「先生とこの生徒さんにちげえねえと思うが、裏の桃の実が盗まれて困る……」

 動員生活をはじめて一年にもなるが、こんなことはまだ一度もいわれたことがないだけに、強い反撥心を抱いたが、小作寮には全く知らない下級生もいることなので、家主のことばを打ち消すこともできずに引き下がった。

 それから、それとなく桃の木のある方へ行って注意していたが、ある日、工場から帰った夕暮れ時、ふと、桃の木の蔭に女の子が立っているのを見つけた。それが武蔵の生徒であることも判ったが、その時の顔がいつまでも心に残って忘れられなかった。

 

 

 

 

 

動員に付き添って

  (M先生)

 

 私は武蔵高女二回生東組の担任として、昭和十九年六月から動員学徒を引率して昭和飛行機に行った。朝の青梅線は工場の従業員と動員学徒で一杯で、小さな電車にはいくら詰めても入り切れず、立川駅の乗換えは実に大変でした。それは今のラッシュに決して劣るものではない。昭和前駅で集合して整列して工場の門をくぐった。朝出席を調べてから学徒課の建物の二階に引き揚げて生徒の出席日数による賃金計算や配給物の割当てなどを行った。そこには都立十中(西高)帝国第一高女(吉祥女子高)立正高女(東京立正高)などの先生方も居て何となく雑然としていた。

 ここは機体工場のせいか爆撃による被害がほとんどなかったことは幸いであった。しかし荻窪の陸橋が破壊されたりして中央線がしばしば不通になり、線路伝いに生徒と歩いたことや、開通の見通しがなくて玉川上水を渡って社宅に分散して一晩泊めて貰ったこともあった。

 二十年三月に二回生が四年で繰上げ卒業となり、私も昭和飛行機とお別れすることになった。卒業式は学校で行うことになり、校長S先生が農家からさつまいもを買ってふかしてお祝いして下さった。

 その年四月には日立航空機に動員の四回生を引率されたA先生が教頭として学校に戻ったのと交替に私がそちらに行くことになった。立川駅から北立川まで歩いて、そこから送迎バスで大和村(東大和市)の工場まで行った。初めて見た工場の建物はあちこち破壊されていて、この中で仕事ができるかと思った。ここは小型のエンジンを製作しているので爆撃されたとのことで、動員中もたびたび空襲があり、爆弾が落ちた跡のすり鉢状の穴のある畑を走って、よく遠く村山貯水池(多摩湖)の木陰まで避難した。しかし飛行機の方が速く、途中で小型機に襲われ、地面のくぼみに伏せたこともあった。また工場に行ったもののバスが出なくて六kmの道を立川駅まで歩いたこともあった。そのうちに女子学徒を安全なところで仕事させようという会社の考えで疎開することになった。

 当時の私の工場出勤日誌を転載すると、

 六月二十九日 飯能作業場を下見に行く。

 七月十四日  入寮打合せのため再び飯能へ。

 八月三日   入寮に関する印刷物を渡す。

 同八日    組立係生徒十一名先発。

 同九日    寮の洗濯場を作る。

 同十日    朝空襲警報で待避。学徒係と打合せの上、バスが出ぬので飯能行延期。

 同十一日   九時半出発、飯能着十五時半。

 同十四日   風呂場用砂利運搬。工作部長以下視察に来る。全員本社迄トラックで帰る。

        (注 当分帰宅できそうもないので、休電日に帰らせた。)

 同十五日   休電日N先生寮に留守居。

 同十六日   午前十時所長訓示。生徒は二十日出社のことを伝え帰宅させる。

 同十七日   本日を以て全学徒動員解除。

 

 

 

 

 

学校から工場へ

  (H先生)

 

 昭和十八年四月一日、東京の空も、いよいよB29に侵されはじめた頃、私は、横浜の鶴見高女より転任して参りました。当時の私は二十七才のハイミス。知人の世話で用意された住いは、三鷹陸橋前の、上連雀八○三、三DKの一軒家で風呂場もあれば、狭いながらも、お庭もあって、家賃は、十三円五十銭也。校舎の周囲は、雑木林などもあって、昔ながらの武蔵野の風情が沢山残って居りました。三年生が最上級生で、我等新任教師、A先生、A先生、S先生、M先生に私、第二職員室に陣取らせられました。

 朝露を踏んで、小金井の桜堤への行進、教学練習所への勤労奉仕、一日五十Kの強行軍、敵機の一直線に描いて行った飛行機雲、数々の思い出がなつかしくよみがえってきます。物資の不足に、教材の工夫には、実に、みじめな思いをいたしました。調理の実習には、七輪(土をこねたコンロ)を屋外に持ち出して、うちわで、バタバタと炭火をおこして、里芋、じゃがいもなど、すべて野菜は、泥を洗い落とすだけで、皮をむいてはいけない。葱のひげ根まで、如何に利用するか、という事に、苦労いたしました。学生時代、一人一羽ずつのローストチキンの始末に、苦情を言っていた頃とは、あまりにも異って居りました。しかし、まもなく、さつまいもの茎利用の調理の授業も出来なくなり、校舎の廻りには、防空壕が掘られ、校庭は、芋畑となり、朝夕の登下校は、モンペ、ゲートル姿、防空頭巾に、救急袋を肩に、避難訓練は、そのまま、昭和飛行機への出勤につながってゆきました。戦争の激しさは、今にして思えば、敗戦の苦悩に近づいていたのでしょう。

 “花も蕾の若桜、五尺の命引っさげて、国の大事に殉ずるは……”と声高らかに、歩調をとって工場の門をくぐる生徒の姿が、はっきり目に浮かびます。旋盤に立ち向かう姿、ジュラルミンの鋲うちに、額の鉢巻に、にじむ汗、真剣なまなざし、戦争の思い出は、ここまで来ると瞼が熱くなります。

 二十年二月二七日、私は、母危篤の電報で郷里に帰り、一週間後に母を亡くしました。そのまま公務多忙の父一人残して、東京に帰るにしのびず、郷里に残りました。敗戦のその日まで、先生方や、生徒の皆さん達と、苦労を共にしなかったのが、今も心残りなのです。

 

 

 

 

(※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)