青梅線におもう

  (S先生)

 

 早春になったら、青梅に梅を見に行こうと毎年思うことだった。

 それが今年の三月末急に出かける気になって立川から青梅線に乗った。

 古ぼけた車輌に色とりどりのハイキング姿のにぎやかな若い男女たち、暖かく春めきはじめた沿線風景、それを眺めているうちに私の心の中にしづかにもう一つの光景が重なって来るのだった。

 灰色の高い塀、その塀がどこまでも続く広い昭和飛行機工場、そこに照り返る真夏の太陽、ズダ袋のようなものを肩にかけた長袖モンペ姿のむさしの生徒たちが、電車の中に汗まみれになりながら静かに耐えていた朝夕。その広大な工場の中に散らばって一層幼く見えた生徒たち。彼女たちのノートの文字のように正確に作り出されて行く部品。山登りの好きなヒゲの指導員が、講堂に集まった生徒に元気を出させようと面白く笑わせていた工場の午後。

 そうした光景の中で、いつも清純で凜々しく見えたむさしの生徒たちの姿とともに、ある夕方、帰りの満員電車に乗り込んで来たまだ童顔を残した青年将校の真新しい軍刀と皮の長靴が、今でも眼底に焼きついているのは何故だろう。

 私は昭和十九年八月末日この勤労動員付添いのさなか招集を受けて出征した。むさし高校では二番目だった。(最初に出征されたK先生は戦死された)

 昭和飛行機工場の生徒たちが青梅寮の生活に入ったことを知ったのは、横須賀海軍基地の兵舎の中であった。

 電車がむかしの昭和工場のあたりを通り過ぎてしまった後も、三十年前と現在と二つの重なった風景はなかなか消えない。

 窓外に流れてゆく農家の梅は真盛りで私の想いの中にとけてゆくのであった。

                               (昭和四十九年春記)

 

 

 

 

 

武蔵高女と戦争

  (H先生)

 

   武蔵の五年間

 もう三十四年も昔の昭和十五年、まだ中野に創設された仮校舎にあった、府立第十三高女に赴任したのが私の四十歳頃であった。それから昭和十九年十二月、郷里松山に疎開転任するまでの五年間は、思いもかけず武蔵高女と云う兵舎住いの明け暮れであった。と云うことは恰も私はこの学校に戦争生活をしに行ったようなものだったからである。徴兵に取られなかった私にしてみれば、考えて見ると国民皆兵の一員としての義務が此の時果たせられた結果ともなり、やっと一人前の日本国民となれて、肩の重荷を下ろしたような気にもなったのである。

 大東亜戦争!!正直に云えば実に嫌な思い出である。海ゆかば水漬く屍の葬送曲が未だに耳に響いて来る。重大ニュース、大本営発表など、胸を締めつけられる思いであった。英米撃滅、一億一心、八紘一宇、歩け歩け、ほしがりません勝つまでは、などの言葉を思い出すと、カーキー色の粗末な国民服に戦闘帽で、宿直の為に今は影もないあの校舎前の雑木林の暗闇の中を、ライター片手に出勤したことが偲ばれ、モンペ姿に白鉢巻の女生徒の姿が痛ましく目に浮かんでくる。三十四年も昔のそんなことが、つい昨日の出来事のような悪夢となって現れて来るのである。がまた建国以来多くの日本人の中で、此の時に生きていた私達だけが、敗戦の憂き目を味わい、一億総蹶起の尊い体験を与えられたのだと思うと、また青空に向かって高々と叫びたいような一種の誇りを覚えるのも事実である。この生死を賭けた苦難の生活があったればこそ、この年になるまで、どうにか無事に生かされて来たことを、有難くも思うのである。この意味でこの戦争は嫌な思い出であると同時に懐かしい過去にも繋がったのである。

 

   食料のこと

 この長い苦しい戦争中で一番に思い起こすのは恥かしい話だが食料のことである。私は本郷から駒込駅に出て国電で新宿、それから中央線に乗り替えて、昭和飛行機製作所のある立川に通った。家を出る時は必ずリュックサックを忘れなかった。云うまでもなく買い出しの用意である。「毎日買い出し労務者のようだわ!!」とよく家内に冷笑かされたものだった。顔は冗談の笑いではあるが、お互に生きるか死ぬかの真剣さである。帰途付近の百姓家に寄って食料、特に野菜物の買い出しである。初め頃は乞食みたいに袋を背負うのが、生徒に見られはすまいかと、恥かしい気持ちもあったが、段々馴れて来ると慢性になり横着になって、食料事情もいよいよ窮屈になったせいもあってか、習慣になって、平気になった。正に教育者としての矜持はどこへやら、生きる為には恥も外聞にも無神経になってしまった。

 電車は寿司詰、窓から飛び乗ることもその当時は当り前のことであった。その中へ野菜物を一杯詰め込んだリュックを背に、無理に割り込むのだから体力の消耗は非道い。もう授業や作業などをする元気もなくなってしまう。餓鬼道に落ちた浅ましい教育者 — いや人間の姿であった。「戦争に勝つためだ」と云うのもおかしな言い訳に過ぎないが、生きる為にはそれが真実だと思い込んだ。

 或る時、もう顔馴染になった学校の近くの百姓家に買い出しに行ったが、目ぼしいものがなかったので、蔓を取るために庭の畑に伏せてあった、もう二、三センチも新芽を出している親芋を、無理に頼んで買ったことがある。この頃は甘いものと云えば、砂糖気は殆ど口に入らず、たまさか、キャラメル、チョコレート、甘納豆、乾バナナ、東山などが手に入った位だから、その薩摩芋を手に入れたので鬼の首でも取った積りで帰宅したものである。所が駒込駅を下車した頃は、もう真暗、駅から電車道を上富士前を通って白山上まで歩いて帰るのである。灯火管制なので、暗くて歩道がぼんやりしか見えない。早く帰って家内や子供達を喜ばせてやろうと急いでいたので、どうしたわけか蓋の開いているマンホールにとうとう片足を突っ込み、したたか向う脛を打って大怪我をしてしまった。気が立っているので、それでもびっこを引きながらも重いリュックを背負ってやっと我が家に辿り着いたものである。

 “待望のふかし芋”と生唾と一緒にその芋を口に入れた途端、水気も甘味もない、まるで綿を食べているようなまづさである。如何に甘味に飢えているとは云え、到底咽喉を通るような代物ではないのである。ガッカリしてしまった。道理で「種芋だから食えるかどうか……」と百姓家の主人の云った言葉が怨めしく耳にはね返って来るのである。ガッカリしたせいか、向う脛の傷がいやにぴりぴりと痛み出した。全く泣きっ面に蜂の情なさであった。

 また或る時白米が少々手に入ったので、久しぶりに美味しい御飯にありつこうと、いろいろ考えた末、ボタ餅を作ることにした。それで校庭の端っこに萌え出ていた蓬をウントコさ摘んで帰って、少しでも量を増やそうと米の量位その蓬を入れて蓬餅を作ったわけである。所がその蓬を生のままで多量に入れたために、灰汁が強くて生の蓬を咬んでいるみたい。せっかくの銀飯の味なんか微塵もない。怨めしくそれをみんな放り棄てたことがあった。

 この頃食料はすべて配給で、飛行機製作所での食事も食券であった。四十歳、働き盛りの私、また十七、八才、食べ盛りの生徒達、到底配給の食券では不足である。生徒達はそれで家から空豆、チョコレート、落花生、グリコ、キャラメル、時には餅やアンパンなどを持って来たりした。(私の居た頃は生徒は自宅から通っていた。)私達も余り空腹になると友人から余ったり不用になった食券を譲ってもらったり、時には生徒ご持参のご馳走にありついたりしたものであった。

 時代が時代だけに、こうした食い気の話ばかりになって誠に申訳がないのだが、ただ一つ今でも有難かった忘れられない話は、私の組にAさんと云う、父が陸軍少将?とか云った生徒の家が、学校の近くにあった。ご多聞に洩れずこの将官の家には平和時と余り変わらない贅沢な食品があったようであった。その家へ家庭訪問に行った際、思いがけなくも、この戦時我々庶民の口には入らない、酒、肉、玉子、果物など、高級なご馳走に呼ばれたのには、むしろこちらが目を丸くして、驚いてしまったことがあった。「有る処には有るもんだなあ」と云う羨望の気持よりも、有難さで涙がこぼれ、「先生冥利」を満喫したものであった。

 

   昭和飛行機

 ところで学徒動員で行った昭和飛行機製作所では、アメリカ機を真似たダグラス輸送機を作っていた。二、三十人乗の中型機である。出来上った機体が、工場の横のあの広い草原に百台以上も並んでいた。「毎日こんな沢山の飛行機が作れる位なら、日本も戦争にはきっと勝てる!!」と素人考えからそう思って毎朝出勤の時に頼もしく、それを眺めていたものであった。昼食後休憩の一時間を、この原っぱに寝ころんで、青く澄んだ大空の下キラキラ光る銀色の機体をまぶしく眺め、風速を示す赤と青の小さい吹き流しが、あるかないかの微風に動いているのを見ては、一体どこで戦争しているのかと、不思議に思う位の平和そうな一時であったことも、印象に深く残っている。

 中央線での立川から新宿までの車中、よくB29に襲われた。敵機は富士山を目標に太平洋を北上し、大菩薩峠を廻って立川に出て、中央線を目じるしに南下、東京空襲のコースを取ると聞かされていた。それでこの中央線上空にはよく敵機が現れたようである。

 急に電車がストップする。初め頃は事故かと思った。ところが敵機の来襲である。乗客は急いで全部下車、沿線の家の蔭や雑木林の中に待避する。身をひそめながら仰ぐと、一万メートル以上の上空を見事な編隊を組んだB29が銀翼をギラリと光らせながら、無気味な金属性の音を立てて、東京方面に南下していくのである。その後を日本の戦闘機が喰いつくようにして追ってゆく。まるで猫に群がる蠅のように小さく見える。「向うの奴落ちてくれないかなア」と、目ばたきもしないで、木蔭から食い入るように神経を尖らすのであるが、向うはビクともしない。悠々と編隊も崩さないで南下して行くのである。その面憎さ、「流石物量に物を云わせる敵さんだけある」と、口惜しいながらも感嘆したりした。時によると立川新宿間で、二回も三回も降ろされることもあった。

 

   創立当時の武蔵

 当時の日記を戦災で焼いてしまったので、三十四年もの遠い昔のことなれば、以上のように狸がポツンと石を投げるように、途切れ途切れの記憶になってしまったが、それも戦争も苛烈になった末期頃の思い出で、私が武蔵高女に赴任してからの二、三年は平和な学校生活であった。特に中野から武蔵境に移ってからは、渺漠たる武蔵野、万葉時代を想わすような清澄な自然の環境の中での勉学は、理想的であり楽しかったことも、忘れられない思い出となった。

 図画のO先生とはよくピンポンをやった。大男のO先生、チビッコの私、どう見ても漫画的組合せであった。「キヨちゃん」というニックネイムを生徒から頂戴したのも、その頃であった。と云うのもその頃朝日新聞の漫画に悪戯ッ児の「キヨちゃん」が出ていた。小粒で敏捷なキヨちゃんが紙の三角帽をかぶって活躍するのである。O先生の側にいる私が一層小さくキヨちゃんに見えたらしい。又英語のY先生や、国語のO先生とはよくキャッチボールを楽しんで、腹を減らしたことも青春の楽しい過去となった。当時の武蔵高女も、今は武蔵高校。草深き武蔵野を背景に、武蔵高女にもこうした平和な頃があったのだが、その頃の懐かしい多くの先生方とも、相見、相語ることもなくなった。歳のせいか、戦争の悪戯か、それにしても哀楽織り交ぜた青春時代のあの頃が懐かしい。

                         (昭和四十九年四月二十日記)

 

 

 

 

(※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)