失われたもの

  (M先生)

 

 TBSの放映が縁となり、皆さんの昭和飛行機への動員の記録が、皆さんの手で編集されることは、とても有意義と存じます。歴史その他の資料となる記録が如何に重要であるかを、近ごろ痛感しています。その矢先にこの稿を依頼され、真先に、公式の動員日誌(二十年三月末までは私が記入したもの)が消失しているのが残念でなりません。それは敗戦後も、木造校舎の音楽教室の倉庫にあったものですが、三十七年一月八日の火災で焼失したものではないかと思います。私個人の日記は五月廿七日の空襲で焼かれてしまい、当時のことは記憶にたよるしかありません。

 四年生(第二回生)の動員は、五年生より早く、十九年の五月末ごろでした。五年生が遅れたのは、割り当てられた国分寺の工場の受入態勢を調査したS校長が、改善を強く主張して、それができ上るまで、生徒を出さなかったためです。昭飛の方は、校長によれば「設備もよいし、学徒に対する理解もある。少し遠いが、武蔵高女の分校のつもりでやってくれ」とのことでした。

 武蔵は、昭飛の学徒としては第二番目で、第九・明星・帝国第一と一緒でした。先輩は豊島商業の男子がいました。他校に負けぬように張り切ったものでした。会社では、勤労課の学徒係が世話をしていましたが、動員の学校は増す一方で、学徒係を学徒課に昇格させました。武蔵からは三年生も、後には二年生まで動員され、会社では第一の人数になりました。

 私たち付添教官の任務は、何よりも先ず女生徒の安全が第一で、士気高揚、実社会での生活指導などでしたが、かえりみて皆さんに申し訳なく、正しく戦犯ものです。作業の前後に全員を広場に集め、いわゆる訓辞をしたことなど — 私としては、学業の時間を失った皆さんに、なんとか知的なものをと、苦心したつもりですが、えらい迷惑だったと思います。いつもお詫びの気持でいます。それは戦争はもうごめんだという気持と一緒です。

 

 

 

 

 

入寮に至るまで

  (S先生)

 

 すでに三十年以前のことになりますが、空襲もはげしくなり、勤労動員のために生徒諸君が家庭から通うのが危険になったところから、他校の例もあり、寮生活のことを真剣に考える必要が痛感されました。

 そこで私も当時の校長S先生と何度かそのことについて相談し、お願いし、寮生活を実現するところまで漕ぎつけました。いよいよ具体化する時になって、私は召集令状をうけとり入隊しました。そのためにその後のことはS先生、O先生にすべてをお願いし、実際にタッチすることができませんでした。

 以上のような事情から青梅の寮生活の実際は全然わかりません。しかし今こうして皆さんが旧寮に集まり、当時をしのぶ気持はよくわかります。非常時に寝食をともにした生活は忘れられないものでありましょう。この会が末長く続きますよう期待します。

 

 

 

 

 

昔のままの青梅寮

  (S先生)

 

 TBSスタヂオから全国放映された三十余名の二十八年前の武蔵高女青梅寮生達、なんと品のよいことだろう。服装態度すべてが美しい。一挙一動に巾広い豊かな教養がにじみ出ていた。もの静かに落着いて短い言葉でよく考えがまとまっていた。これ見よがしの派手さが少しもない。全人的武蔵教育がそうさせたのだろうか。よい素質の上に育ちのよさ。あの波乱激動の女学生時代を経ながらも、自らが主体的意欲的に身につけた教養の深さであろう。皆さん現在の家庭生活が、どんなにか安定しおしあわせなことだろうとうれしくてたまらない。妻として母として嫁として女として職業人として常々楽しく伸びつゝある結果であろう。

 青梅寮の薄暗い部屋で蚤取り虱取りに雄々しく取組んだ少女達を思い起こした。せんべ布団の中で大豆をポリポリかじっていた音が聞こえてくる。たのみの大豆も干芋もなくなって、すきっぱらに水を飲んで寝る姿が忘れられない。布団越しに下級生に手をさしのべて眠っている姉ごころ。いつ襲来するか予測知れない空襲下、何としてでもこの娘達の身を守らねばと歯をくいしばったこと幾度か。

 六時起床の合図でうす黄緑の粗末な作業着で身をかため、コーリャン飯やらすいとん汁、腹半分に不平も言わず防空頭巾を背中に工場通いの足どりも元気であった。飛行機増産に追いまくられる徹夜作業の休憩時、作業場のかたい椅子でうとうとする妹分に、自分の作業衣をそっとかけてやる班長姉御(上級生)に涙腺を刺激されたのも、女学校教師の気の弱さだったろうか。

 幼な子を背中に、やんちゃん三才坊主を遊ばせながら寮母づとめの愚妻も、親もと離れて増産にはげむ教え子達を守る夫への協力に、不束ながらも懸命であった。親子四人六畳ひと間の寮監部屋に召集令状が届いたのは、夜半十時過ぎ寮をひとまわりし終った頃だった。翌日夜の壮行会、寮生一人一人の心づくしのあたたかさ、出発早朝青梅駅頭「海行かば……」の全寮生の歌声は終生忘れることができない。

 「真白き富士の嶺……」をうたいながら二列行進した半地下式小作工場への泥道も、今はアスファルトで高級車がスピードを出して走っている。あの桑畠ももう見られない。

 共に過した青梅寮でのつどいに、中年の貫禄十分になった二十八年前の武蔵乙女が、感慨にひたりながら続々と集まって来る。会った瞬間声も出ず手をふれ、握りあって感無量。

「アッここで寝たのよ」「アラッそのまま残っているわ」「このお部屋よ、先生に叱られてベソかいたのは」「ホラここからよ、遙か東京の空が一面まっ紅になって焼夷弾で焼けるのを見たじゃない。」

 誰もが柱に天井に床の間に階段に窓わくのあちこちに、二十八年前の自分の息吹が、手垢が着いているのを思い出し懐かしんでいる。あの想像もできない苦しみも消え失せ、寮生活の思い出に何時までもふけっている。四十余名昔のままのこの部屋で、親しく和やかな語らいが出来るとは誰もが想像しなかったことであろう。一つ屋根の下で一つ鍋の生活をし、生死を共にしたことが理屈ぬきで此の結びつきを堅くしたのであろう。悪夢の再現を恐れて、とんでもない催しだと怒りを覚える者が多かろうなどと想像したのが恥ずかしい。

 終戦直前の北京在住の母上への手紙が契機となって、数年間からこの集いを計画されたKさん、全面協力のTさん、Oさん、Tさん、TBS放映実現のTさんに心から感謝し、私ども夫婦ともどもこのなつかしの集いにお招きいただいたよろこびは何時までもいつまでも忘れません。Mさんから当日のフィルム全巻を贈られました。またの集いに皆さん孫の手をひきながら一緒に見る機を念じつつ筆をおきます。

  (付記 S先生は青梅寮の寮監としてご夫妻で二つの寮の寮生をお世話下さいました。)

 

 

 

 

※文中の個人名はイニシャルに変更、その他のテキストはすべて原文のままです。)